ドス・ピラス
グアテマラの遺跡
ドス・ピラス(Dos Pilas)は、グアテマラ、ペテン県のペテシュバトゥン地域にある、古代マヤの遺跡。
![]() 石碑は倒した状態で屋根をかけて保護されている | |
所在地 | グアテマラ、ペテン県 |
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地域 | ペテシュバトゥン |
座標 | 北緯16度26分45秒 西経90度17分45秒 / 北緯16.44583度 西経90.29583度座標: 北緯16度26分45秒 西経90度17分45秒 / 北緯16.44583度 西経90.29583度 |
種類 | 定住地 |
歴史 | |
時代 | 古典期後期(7-8世紀) |
文化 | マヤ |
概要
編集歴史
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ドス・ピラスは7世紀なかばの創立以来戦乱が相次いだ。最初の王バラフ・チャン・カウィールは625年にティカルの王子として生まれた[2]。21歳のときにティカルでは内乱が起こり、バラフ・チャン・カウィールはティカルから分かれてドス・ピラスを建てた。当時のティカルの宿敵だった北のカラクムルのユクノーム・チェン大王はこの機会を逃がさず、650年にドス・ピラスを、657年にティカル本体を征服した[2]。それ以来ドス・ピラスはカラクムルに従属した[3]。648年の日付のある石碑6号ではカラクムルの臣下(yajaw)を称している。ティカル王ヌーン・ウホル・チャーク︵バラフ・チャン・カウィールとは兄弟にあたる︶は672年にドス・ピラスを攻撃し、バラフ・チャン・カウィールはドス・ピラスから逐われたが、677年にカラクムルがティカルに勝つと帰国した。679年にふたたびティカルの攻撃を受けたが、今回はヌーン・ウホル・チャークが敗北した[4]。
698年に2代目の王イツァムナーフ・カウィールが即位し、28年間にわたって統治した。この時代、戦いの相手はティカルよりも近くのペテシュバトゥンおよびパシオン川一帯に勢力を築くことに向かった[5]。後にドス・ピラスの第2の都となったアグアテカ、およびセイバルともこの時代に関係がはじまっている[5]。735年に3代目の王はセイバルを征服した[6]。
741年に即位した4代目の王カウィール・チャン・キニチも近隣に勢力をふるったが、761年におそらく属国の反乱によってドス・ピラスは滅亡した[7]。ペテシュバトゥン地方全体を統括する権力が消えると、都市どうしが戦乱にあけくれるようになった。
ドス・ピラスは761年にいったん放棄された後、不法居住者たちが住みついた。彼らは神殿や宮殿を破壊し、それを材料として町を外壁で囲って敵の襲来に備えたが、結局は外敵の侵入によって滅亡した[8]。
再発見
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ドス・ピラスは1953年か1954年に地元の人間によって最初に報告された[9]。1960年にロシア系フランス人のピエール・イヴァノフが探検した[9]。
1989年以降、ナショナルジオグラフィック協会、グアテマラ考古学歴史研究所などの後援により、ヴァンダービルト大学のアーサー・デマレストらによる大規模な発掘が行われた[9]。
遺跡
編集脚注
編集参考文献
編集- Guenter, Stanley Paul (2003), The Inscriptions of Dos Pilas Associated with B'ajlaj Chan K'awiil, Mesoweb
- Kelly, Joyce (1996). An Archaeological Guide to Northern Central America: Belize, Guatemala, Honduras, and El Salvador. University of Oklahoma Press. ISBN 0806128615
- Martin, Simon; Grube, Nikolai (2000). Chronicle of the Maya Kings and Queens. Thames & Hudson. ISBN 0500051038
外部リンク
編集- Marc Zender, Dos Pilas Hieroglyphic Stairway 2, Mesoweb(2001-2002に新しく発見された階段の文字の写真)