バラック
バラック(英: barracks)は、本来は駐屯兵のための細長い宿舎のこと[1]。転じて、空地や災害後の焼け跡などに建設される仮設の建築物のこと。
概要
編集困窮によるもの
編集日本では困窮した人々が空き地などに建てた小屋程度の住居をこのように呼ぶことがある。河原などにホームレスなどが造るテント小屋や段ボールハウスも、同様に呼ばれることがあるという。
日本のバラック
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日本では関東大震災︵1923年︶などの天災や東京大空襲などの絨毯爆撃を受けた後、トタンや有り合わせの木材、破壊されなかった建築物を組み合わせ、雨露をしのぐ程度のバラックが大量に建てられた。これらは震災・戦災後という非常事態に対し、応急的に発生したバラック建てであった。
関東大震災後には、市街地建築物法︵現在の建築基準法︶の規定に従った建築を行っていては住居の供給が間に合わないため、特別立法︵いわゆるバラック令︶により基準を満たさない建築物でも建てることが認められた。これらの多くは、小規模な住居・店舗だったが、中には築地小劇場のような比較的大きなものも建造された。こうした中で今和次郎らが﹁バラック装飾社﹂を設立し、商店などのバラック建築をにぎやかにデザインして街を彩った。バラック令は期間限定の法規であったため、期限満了後は補強をおこなって本建築並みの基準を満たすか、または取壊して建て直す必要があった。
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西村貿易店(遠藤新)
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大木合名会社(吉田五十八)
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アイディアルホーム(レイモンド社)
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千疋屋フルーツパーラー(前田健二郎)
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関東大震災後の仮設店舗:資生堂(川島理一郎)
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小川屋呉服店(有馬組)
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橘硝子販売店(関本勇治)
第二次世界大戦の終戦後には、外地からの引き揚げ者も多く、建物疎開跡の空き地などの土地に不法に建てられたバラックが多数に上った。色々な街で興行された闇市の商店も、その1つである。闇市から発展したアメ横、秋葉原電気街、新宿ゴールデン街などの店舗の中には、当時のバラックを思わせるような狭い間口で奥行きの無い店が見られる。
バラックに関連する出来事
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●1948年︵昭和23年︶8月2日 - 神奈川県川崎市で竜巻が発生。戦災跡地に建てられていたバラック住宅が被害に遭い、死者3人、重軽傷者106人。38戸が全壊、50戸が半壊[3]。
●1950年︵昭和25年︶12月3日 - 鹿児島県鹿児島市小川町で火災。バラックなど約300戸が全焼[4]。
●1951年︵昭和26年︶1月10日 - 岐阜県大垣市郭町で火災。一戸約3坪のバラック90戸を含む105戸が焼失した[5]。
●1969年︵昭和44年︶1月 - 京成電鉄京成本線、江戸川橋梁直下のバラック住宅で火災が発生して2人が死亡。線路の枕木に延焼して京成電鉄が運休した[6]。
●1976年︵昭和51年︶3月8日 - 兵庫県神戸市葺合区脇浜町のバラック住宅密集地で火事。210㎡の一区画33棟89戸が焼失、約100世帯、200人以上が焼け出された[7]。
脚注
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(一)^ "バラック". 精選版 日本国語大辞典、デジタル大辞泉、世界大百科事典 第2版. コトバンクより2023年5月17日閲覧。
(二)^ 世相風俗観察会﹃増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年︵1945︶-平成20年︵2008︶﹄河出書房新社、2003年11月7日、6頁。ISBN 9784309225043。
(三)^ 日外アソシエーツ編集部編 編﹃日本災害史事典 1868-2009﹄日外アソシエーツ、2010年、70頁。ISBN 9784816922749。
(四)^ ﹁鹿児島市で大火 三百余戸焼く﹂﹃朝日新聞﹄昭和26年12月4日4面
(五)^ ﹁大垣市で百五戸焼く﹂﹃朝日新聞﹄昭和26年1月11日
(六)^ ﹁高まった付近の苦情 納税も拒否される﹂﹃朝日新聞﹄昭和44年︵1969年︶10月11日夕刊、3版、10面
(七)^ ﹁無住宅密集地で大火 百世帯ひとなめ﹂﹃朝日新聞﹄1976年︵昭和51年︶3月8日夕刊、3版、9面
参考文献
編集- 『アメ横の戦後史―カーバイトの灯る闇市から60年』 長田昭著 ベストセラーズ ほか
関連項目
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●建築
●仮設住宅
●日輪兵舎
●東映生田スタジオ
●テント
兵舎
●ビレット (宿営) - 民家を使った兵士の宿舎。宿営
●ニッセン・ハット ‐第一次世界大戦で使用された。
●クォンセット・ハット ‐第2次世界大戦で使用された。
外部リンク
編集- バラツクと其安全生活法生活改善研究会 編 (南光社, 1923)
- バラツク建築(1) (2)建築写真類聚刊行会 (洪洋社, 1924)
- バラツク居住朝鮮人の勞働と生活 大阪市社会部報告. 第51号(大阪市社会部労働課, 1935)