バレーボール︵英語: Volleyball ヴァリボール︶は、ネット越しにボールを打ち合うチームスポーツである。3回以内で相手コートに返球しあうことで点数を競う。大抵は1チーム6人で行われる[注釈1]。略称はバレー[1]。
バレーボールは、1895年に子供、女性、高齢者でも楽しめるスポーツとして、アメリカの体育教師であるウィリアム・G・モーガンによって考案されたとされている。
試合では9メートルと18メートルのエリアを、中央をネットで分けたコートを使う。ネットの高さは年齢や性別などによって異なるが、大体2メートルから2.43メートルの間で設定される。このネットには試合中いかなる部分も触れてはならない。チームの人数は6人制や9人制があるが、6人制が主流である。
バレーボールは球技で唯一ボールを落としてはならないスポーツであり、またボールを持つことや同一プレイヤーが2回連続で触ることはできない(ブロックを除く)。これらの基本的なルールのもとラリーは行われる。ラリーはボールを打つこと︵サーブまたはサービス︶から始まり、サーブを受けるチームが3回以内に相手コート内に返球し、以後コート内に落ちるかコート外に落ちる、もしくはいずれかのチームが反則を犯すまでラリーは続く。ラリーが終わるとラリーを制したチームに1点が加算され、ほとんどの場合25点を先に得たチームがセットを取る。先に3セット先取したチームがその試合に勝つ。(5セットマッチの場合)
ウィリアム・G・モーガン
バレーボールは、1895年、子供、女性、高齢者も気軽に楽しめる室内スポーツとして、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ホルヨークのYMCAで当時25歳のアスレティックディレクター、ウィリアム・G・モーガンによって考案された。
発祥の日は特定されていないが、元になった﹁ミントン﹂が1895年の夏にYMCAキャンプ研修会で初めて紹介されていること、モーガンのホルヨーク着任が長男ルフス誕生︵8月29日︶より後とされていること、モーガンのホルヨークへの転任が報じられているのが1895年10月のYMCA会報であること、10月23日の地元紙﹁ホルヨーク・デイリー・エクスプレス﹂にはモーガンの活動のことが掲載されていること、積雪により屋外で野球やアメリカンフットボールがプレーできない﹁冬季向け﹂のゲームとして考案されたことから、秋から冬と考えられる。
当初の名称はMintonette︵ミントネット︶。これは1895年、インドに派遣されていたマッコノーイによって紹介された﹁ミントン﹂︵羽毛球を使った5人制のバドミントン︶に由来する。バスケットボールはモーガンをYMCAに誘ったジェームズ・ネイスミスが1891年に冬期の屋内スポーツとして考案し、ラグビーなどで見られるタックルなどのラフプレーを防ぐためボールを保持したまま走れないようにするなどレクリエーション要素を考慮していた。しかしバスケットボールは主に男子学生向けの競技であり、身体的な接触による激しいプレーが好まれる風潮もあって、モーガンが受け持っていたホルヨークYMCAビジネスマンクラス︵25歳から40歳︶には不向きな競技となっていた。YMCAでは大人数で気軽に楽しむことができ、身体接触がない安全なゲームを必要としていた。モーガンは学生がバスケットボール用のボールの中にある軽量なチューブで遊んでいる姿をヒントに、バドミントンのほか、テニスなどネットで対戦相手と区切られているスポーツのルールを参考にしたスポーツを考案した[2]。このころのルールは非常に単純で、試合に集まった人たちを同じ数の2チームに分けて、相手コートに返す際の回数は決まっておらず、ボールを打ち合い、ボールを落としたほうが負けというものであった。しかしながら、当初から得点が入るのはサーブ権があるときのみ︵サイドアウト制︶であり、バドミントンの影響が大きい。この時点では、﹁味方にパスが可能、素手、ポールを使う﹂というミントン系のスポーツだった。
1896年7月、モーガンはこの新ゲームをスプリングフィールドで開催されたYMCA体育指導者会議の際に公開した。モーガンは当初このゲームをミントネット︵Mintonette、ミントンもどき︶と名付けたが、YMCAトレーニングスクール教官であるハルステッド博士の提案を受け、名称をバレー・ボール︵ボレー・ボール、volley ball︶に改めた。バレーボールのバレーというのは、テニスのボレー︵ボールを地面につく前に打ち返すこと︶からきている[2]。1952年に現在のようにバレーボール(volleyball︶と1語で表すようになった。
ネットの高さは当初6フィート6インチ︵198センチメートル︶だったが、1900年に7フィート6インチ︵229センチメートル︶となった。
バレーボールは各地に点在するYMCAを通じてアメリカ全土に広まっていき、1900年にカナダ、1906年にキューバに紹介された。また、YMCAの指導者により1910年にフィリピンに、1913年に中国に紹介された。
1912年、アメリカでローテーションルールが導入された。
バレーボールの歴史において最大無二のルール変更は1912年にフィリピンで導入された﹁3回以内(ブロックを除く)で相手コートに返球﹂というルールであり、これによりバレーボールはレクリエーションから競技スポーツに進化した。このルールはアメリカでも1917年、フィリピンに派遣されていたE.ブラウンにより提案され、1922年までには導入された。また、今日あらゆるチームが実施している﹁セット&スパイク﹂戦術は1916年にフィリピンで初めて実行された。
最初の公式大会は1913年、マニラで行われた﹁東洋オリンピック﹂においてであり、16人制で行われ、フィリピンと中華民国が参加した。
1922年、アメリカで最初の公式大会﹁全米YMCA選手権﹂が開催された。発明後27年も経っているのは﹁3回以内返球﹂ルールにより、バレーボールが初めて競技スポーツになったことを示している。このときには人数は6人制、15点制、ネットの高さは8フィート︵244センチメートル︶となっていた。
第6回極東選手権競技大会︵大阪府︶での女子バレーボールの試合︵1923年︶。帽子・スカート・タイツのユニフォームを着て、屋外で開催されている。
日本にバレーボールが紹介されたのは1913年のことで、YMCA体育主事のF・H・ブラウンによってもたらされた。
YMCAの外部に広まったのは1917年の極東選手権︵﹁東洋オリンピック﹂から改称︶を多くの体育指導者が観戦したことによる。大会を見てきた指導者たちが主に女子を熱心に指導し、1919年には最初の単独大会である﹁兵庫県女子中等学校排球競技会﹂が開催された。
1921年には男子のみだが、﹁全日本排球選手権大会﹂が開催された。
1917年の極東選手権の際は、参加はしたが他競技とかけもちの選手ばかりであり、戦術にも劣り惨敗した。男子は低調で、1919年は不参加、第5回︵1921年︶は12人制で実施されたが、このときはバスケットボールの選手が出発前に一度だけ指導を受けての形式的な参加だった。
1923年の第6回極東選手権︵大阪︶では日本はいまだにセットアンドスパイク戦術を実施しておらず男子は惨敗したが、エキシビジョンの女子の部で日本の姫路高女が優勝し、女子バレーボールの普及に多大な影響を与え、各地で女子バレーボール大会が開催されていく。
1925年の明治神宮競技大会からは9人制となり、1927年からは極東選手権も9人制となった。
日本では1930年からサイドアウト制が廃止され、ラリーポイント制が導入された。極東選手権でも1934年にラリーポイント制となったが、満洲国加盟問題で紛糾し、極東選手権はこの1934年第10回大会をもって廃止となった。
ヨーロッパにバレーボールが紹介されたのは1920年ごろで、第一次世界大戦で渡欧したアメリカ軍兵士によってフランスからイタリア、チェコスロバキア、ポーランド、ソビエト連邦へと普及していった。このころにはチームの人数も6人と決まっており、すでに現在の6人制バレーボールに近いものができあがっていた。ソビエトでは1925年にロシア共産党の中央委員会が﹁100万人のバレーボール﹂のスローガンを掲げてソ連バレーボール協会を設立し、本格的にバレーボールの発展に取り組んだ。
バレーボールは世界各国のYMCAを通じて国際的に普及し、1924年パリ五輪ではアメリカのスポーツとして紹介された。
1947年には国際バレーボール連盟が結成され、アメリカ式のルールを修正し国際ルールができあがった。
1949年に第1回バレーボール世界選手権︵男子︶がチェコスロバキアで行われた。日本が国際バレーボール連盟に加盟したのは1951年であった。当時、日本のバレーボールの主流は9人制であり、国際試合で使われる6人制バレーボールはまだよく知られていなかった。
1950年代に入ると、東欧諸国ではソ連の高さとパワーに対抗するために技術開発が進められるようになった。特にチェコスロバキアは次々と新しい技術の開発に着手し、速攻、フェイント、ブロックアウトなどの戦術を編み出した。
1952年、女子の第1回バレーボール世界選手権がソビエトで行われた。
1957年、日本で国内初の6人制選手権開催。その後も9人制極東ルールが主流であり、全日本総合選手権においても1958年に6人制が導入されるが、9人制との併用が続く。
1960年、ブラジルで開催された世界選手権に日本男女が初参加。女子2位、男子8位。
1961年、日本男女チーム欧州遠征。女子チーム︵日紡貝塚︶はソ連戦を含めて22連勝し﹁東洋の魔女﹂と呼ばれる。
1962年、都市対抗、国体、全日本インカレ︵男子︶が9人制を廃し、6人制に切り替えた。翌年からインターハイも切り替えた。世界選手権︵ソ連︶で日本女子が優勝した。
1964年、東京五輪からバレーボールが正式種目に加わった。コンビネーション・バレーが確立されたのはこのころからで、回転レシーブ、時間差攻撃など日本独特の技術が編み出された。
日本では部活動としても盛んに行われている。
バレーボールという言葉は誰でも自由に定義できるが、本稿では国際バレーボール連盟が定めたルール(6人制と呼ばれるもの)を説明する。それ以外のルールとしては日本バレーボール協会が定めた9人制のルールなどがある。
日本では、小学生は1セット21点(3セットマッチ、3セット目は15点まで)、中高生は1セット25点(3セットマッチ、3セット目も25点まで)で行われている。なお春高、国体の準決勝以上、インターハイ決勝、春高都道府県予選決勝のほとんど、インターハイ予選決勝の一部はルール通り5セットマッチである。
長辺18メートル、短辺9メートルの長方形のラインが引かれたコートを用いる。その中央にはコートを二分する形で幅1メートル、長さ約10メートルのネットが張られている。ネットの高さは成人男子が2.43メートル、成人女子が2.24メートルと定められている。ネットからそれぞれ3メートルにはアタックラインと呼ばれるラインがある。日本の高校バレーの都道府県大会では男子2.40メートル、女子2.20メートルである。中学生は男子が2.30メートル、女子は2.15メートルと定められている。1989年までは全国大会でも同様であった。これは9人制(男子2.25メートル、女子2.10メートル)の名残である。
コートの外には3メートル以上の空間(フリーゾーン)、天井までの高さは7メートル以上が必要とされる。国際バレーボール連盟および日本バレーボール協会主催の競技会では、フリーゾーンは最小限サイドラインから5メートル、エンドラインから6.5メートル、天井の高さは12.5メートル必要と定められている。また最低気温(10℃以上)や照度(1,000 - 1,500ルクス)なども規定がある。
ボールの色はどんな色でもよく、複数色の組み合わせとされるが、大会や試合では同一でなくてはいけない。円周は65 - 67センチメートル、重量は260 - 280グラム、内圧は0.30 - 0.325kgf/cm2。現在、全国大会の取り扱いでは、0.31kgf/cm2に統一することとなっている。このボールのことも﹁バレーボール﹂と呼ばれる。
ジャージ、パンツ、ソックスはリベロ以外の全員がそろっていることが条件。リベロ・プレーヤーは対照的な色のユニフォームでないといけない。ユニフォームのナンバーは1番から20番を原則としているが、やむをえない事情があれば、99番まで使用することができる。数字の大きさは胸部が15センチメートル以上、背部は20センチメートル以上、字幅は2センチメートル以上でなければならない。チームキャプテンは、胸のナンバーの下に長さ8センチメートル、幅2センチメートルのマークをつける。
1チームは、6人以上12人以内のベンチ入りプレーヤー、監督1人、アシスタントコーチ最大2人、チームセラピスト1人、医師1人で構成される。前衛・後衛それぞれ3人、計6人で競技を行う。プレーヤーのうち2人をリベロプレーヤーとして登録することができる。
ただし、国内大会の競技要項により、部長、マネージャーなどがベンチスタッフとして認められることがある。現在、全国大会やそれに準じる大会では、監督を含むベンチスタッフを置くには、コーチや指導者としての公認資格の有資格者がいることを条件としている。
国際バレーボール連盟および日本バレーボール協会主催のシニア競技会︵公式戦︶においては最大14名のプレーヤーで構成できる。この場合は必ずリベロを2人登録する必要があるが、Vリーグは2018/19シーズンからリベロ1人でも可能となっている。
キャプテンマーク
上記プレーヤーのうち、1名がチームキャプテンとなり、試合中コート内でプレーしている間はゲームキャプテンとして行動する。チームキャプテンがコート外にいるときはコート上のほかのプレーヤーがゲームキャプテンとなる。
ゲームキャプテンは試合中断中のとき、競技規則の適用などについて審判員に説明を求めることができる。ゲームキャプテンは監督不在のとき、タイムアウトや選手交代の権限が与えられる。
ラリーポイント制
サーブ権を持つチームの選手がサーブを行うことでボールの打ち合いが始まり、攻撃決定やミス、反則で打ち合いが終わる。これをラリーという。ラリーに勝ったチームが、1点を得ると同時に次のサーブ権を得る。
1895年の誕生以来100年以上、サーブ権があるときのみ得点が入る﹁サイドアウト制﹂であったが、1998年からラリーポイント制に変更。
なお極東ルール︵9人制︶では日本の提案で1930年過ぎからラリーポイント制に変更されていた。
5セットマッチ
先に25ポイント︵第5セットに限り15ポイント︶を取ったチームに1セットが与えられ、3セットを先に獲得したチームが勝者となる。ポイントが24 - 24︵第5セットは14 - 14︶となった場合はデュースとなり、どちらかが先に2ポイントの差をつけるまでそのセットは続けられる。第5セットではいずれかのチームが8点を先取したときにコートチェンジを行う。
3セットマッチ
上記のようにルール上3セットマッチは存在しないが、日本の高校バレーでは一般的であり、シニア大会の地区予選でも見られる。これは9人制︵極東ルール︶の名残と考えられる︵1962〜1963年に掛けて日本のバレー界は6人制に移行したが、9人制では21ポイント、ラリーポイント制の3セットマッチであり、6人制の15ポイント、サイドアウト制5セットマッチはネット高とともに高校生の体力的な負担、運営の負担が過大という考えであろう︶。先に25ポイントを取ったチームに1セットが与えられ、2セットを先に獲得したチームが勝者となる。ポイントが24 - 24となった場合はデュースとなり、どちらかが先に2ポイントの差をつけるまでそのセットは続けられる。第3セットではいずれかのチームが13点を先取したときにコートチェンジを行う。
各チームは1回につき30秒間のタイムアウトをとることができる。各チームはこの間に作戦を練ったり、選手を休憩させたりしている。タイムアウトの回数制限は両チームとも各セット2回ずつで、たとえ使わなくても、次のセットに持ち越すことはできない。
また、国際試合などでは、第5セット以外に両チームのうち、8点と16点を先取した場合、自動的に﹁テクニカルタイムアウト﹂となっていたが、現在では廃止されている。Vリーグでは12点先取時に残っている。テクニカルタイムアウトの休憩時間は60秒間[注釈2]であり、このルールが適用される大会では第5セット以外の各セットに最低2回プレイが止まる。
チームはネットを越えてボールを返すために最大で3回ボールに触れることができる。1人の競技者は連続してボールに触れることができない。ただし、6人制の場合、正当なブロックは1回として数えない(このため、6人制の場合は同一の競技者が正当なブロック後にレシーブなどで触ることができる。その結果、チームで3回を越えて触ることになるがルール違反ではない)。また、チームの最初のヒットでは、1つの動作中であれば、ボールは身体のさまざまな部分に連続した接触をしてもよい。よってレシーブの際には基本的にはダブルコンタクト(ドリブル)は取られない。現行のルールではボールを返す際に体のどの部位を用いてもよい。これらは審判による主観的な判定を廃し、プレーの連続性を重視するためである。
ローテーション
各プレーヤーはそれぞれ次に示すポジションにつく。
●前衛︵ネットに近い側︶‥左からフロントレフト︵FL︶、フロントセンター︵FC︶、フロントライト︵FR︶
●後衛︵ネットから遠い側︶‥左からバックレフト︵BL︶、バックセンター︵BC︶、バックライト︵BR︶
後衛のプレーヤーはネット際でのスパイクやブロックを禁止されるなど、ポジションに応じてプレーに制限がある。
ポジションはサーブ権を獲得するごとに時計回りに入れ替わり︵これをローテーションという︶、新たにバックライトにつくことになったプレーヤーがサーブを打つ。ローテーションの順序は、バックライト→バックセンター→バックレフト→フロントレフト→フロントセンター→フロントライトの順。
また、後衛のプレーヤーと何度でも入れ替わることができる選手リベロプレーヤーを置くことができる。リベロプレーヤーは、後衛のプレーヤーと入れ替わってコートに入り、ローテーションが進行して前衛にまわる前に元のプレーヤーと交代してゲームを離れる。リベロプレーヤーの入替︵リベロリプレイスメント︶は、ラリーが完了した時に特にゲームを中断せずに行われる。リベロプレーヤーには、後衛に課せられるプレー上の制限に加えてフロントゾーンでのネットより上方のトスや、ネットよりも上方でボールに触れて相手コートに返球することも禁止される。リベロプレーヤーはほかのプレーヤーと異なる色のユニフォームを着用する。
ダブル・コンタクト︵ドリブル︶
同じプレーヤーが連続してボールに触れた場合。ブロックとレシーブ︵チームの最初のヒット︶は除く。ブロックタッチ後のレシーブも最初のヒットとして扱われる。通称ドリ。
キャッチ︵ホールディング︶
ボールをつかむ、または投げること。一瞬でも静止すると反則がとられる。通称ホール。
ボール・アウト
ボールがコート外に落ちたり、サイドマーカー︵通称アンテナ、ネット付近でのコートの内外を示すネットに取りつける棒︶に触れたり、その外側を通過して相手側コートに返ったりした場合。
タッチ・ネット
ボールをプレーする動作中の選手による両アンテナ間のネットへの接触︵ユニフォームなども含む︶は反則である。通称ネッチ。
オーバーネット
相手側のコート︵フリープレー空間︶にあるボールに触れた場合。ブロックでは相手のプレーを妨害しない限りネットを越えてボールに触れることができる。アタックヒットを自チームのフリープレー空間で行ったあとに、その手がネットを越え、相手空間入っても良い。1964年の東京オリンピックでは、相手︵ソ連︶のオーバーネットによって日本の金メダルが決まった。当時、相手ブロックのオーバーネットを誘うのが日本の戦術であった。東京五輪後、ルール変更によりブロックのオーバーネットは許容された。
フォア・ヒット︵オーバータイムス︶
自コートから相手コートに返球する間に4回以上ボールに触れた場合。ブロックは1回には数えない。通称よっつ
インターフェア
相手のアタックヒットの前、または最中に相手側のコートにあるボールに意図的に触れた場合や、相手選手のプレーを妨害した場合。
ペネトレーション・フォールト︵パッシング・ザ・センターライン︶
プレーヤーの両足︵足首より下︶がセンターラインを越して相手側のコートに入った場合。片足の一部でもセンターラインに触れているか、センターライン真上の空間にあれば反則にならない。
ポジショナル・フォールト︵アウト・オブ・ポジション、ローテーションミス︶
サーブを打つ瞬間にプレーヤーが規定のポジションについていない場合。リベロ・プレーヤーの交代が正当でない場合にも適用される。
アタック・ヒットの反則
バック・プレーヤーがフロント・ゾーン︵アタックラインの延長線上よりネットに近い区域も含む︶から跳び上がって、ネット上端より完全に高い位置のボールを相手コートへ返球した場合。
相手チームのサービスしたボールがネット上端より完全に高くフロントゾーンにあるときに、選手がアタックヒットを完了したとき。
アシステッド・ヒット
プレーヤーが味方の他プレーヤーや外部の構造物などの助けを借りてボールをプレイした場合。
サーブに関する反則
1.主審がサーブの許可を出したあと、8秒以内にサーブを打たなかった場合︵ディレイ・イン・サービス、いわゆる8秒ルール違反︶。
2.サーブ順を間違えた場合。
3.サーブエリア外またはエンドラインを踏み越してサーブした場合。
4.味方プレーヤーがネット際でスクリーンを形成して、そのブラインドにサーブを打った場合。
ブロックに関する反則
相手チームのサービスをブロックすること。バックプレーヤーがブロックに加わり、それが完了したとき。アンテナの外側から相手空間内のボールをブロックしたとき。リベロがブロックを試みたとき。
9人制はおもに﹁ママさんバレー﹂として日本では行われているが、世界的には普及しておらず、国際試合は6人制で行われている。9人制では、6人制と比較して、次のような違いがある。
●一般男子はコートがやや広い。
●ネットの高さがやや低い。
●ボールはママさんバレーは白色とカラーボール︵全国大会のみ白一色︶、一般は6人制と同じ︵6人制はカラーボール︶。
●交代要員は3人以内︵6人制では6人以内︶。
●3セットマッチ、21ポイントで1セット。
●アタックライン、リベロ、ローテーションがない︵6人制ではある︶。
●プレー中、ネットにボールが触れた場合には、4打以内に相手コートに返せばよい︵6人制ではネットに触れても3打以内︶。
●サーブの打ち直しが1回に限り可能︵6人制では不可︶。
●ブロックを1打に数える︵6人制では1打に含まない︶。
●どの選手もスパイクを打てる︵6人制では後衛の選手はアタックラインを越えてスパイクを打てないが、9人制にアタックラインはない︶。
●サーブブロック︵スパイクでも可︶が有効︵6人制では反則︶。ただしブロックのオーバーネットは反則︵6人制では有効︶。
前述のように当初はレクリエーション要素の強いスポーツだったが、次第にジャンプ力とそれを反復するスタミナ、アタックやサーブに必要な筋力、ボールを跳ね返す一瞬で方向をコントロールする技術が必要となり、身体接触はないが激しい競技に変容していった。
戦術面でも、ボールが保持できず3回以内に返すという制約から時間的猶予が少ない、あらかじめ決めたパターンから選択するようになった。相手のブロックを欺くためフェイントでアタック動作を行う、ブロックに止められることを想定し落下地点に移動するなど、攻撃に参加していない選手も考えながら常に動き続けるようになり、身体と頭脳を酷使する競技となっている。
戦術は個々の選手に声で指示すると間に合わないため、サインや作戦名によって伝達される。多くの場合、セッターが司令塔を務める。戦術を実行するためには、レシーブしたボールをセッターがトスを上げやすい状態で送ることが重要となるため、相手から返ってきたボールをいかに上手く処理するかが重要視される。
当初はレクリエーションとして考案されたことから、ボールを落とさないようにネット越しに打ち合う以外には特にルールはなく、返球までの回数も無制限だった。元になった﹁ミントン﹂を踏襲し、サイドアウト制が採用され、これは極東を除いて1998年まで続いた。ネット高は当初6フィート6インチが1900年に7フィート6インチ︵229センチメートル︶に引き上げられた。
1910年ごろに日本に伝えられたときには、4人×4人の16人、21点制で行われており、1913年の東洋オリンピック、その後の極東選手権大会も同様であった。日本独自のルールとして、12人制ののち、9人制が普及した。これは日本の提案で1923年、1927年に極東選手権にも取り入れられた。アメリカでは1922年までには6人制、15点制、ネット高244センチメートルとなっていた。1930年に日本で導入されたラリーポイント制は1934年の極東選手権でも採用された。
大きな変更は1912年、フィリピンで導入された﹁3回以内返球﹂ルールであり、これによりレクリエーションとして考案されたバレーボールは競技スポーツに進化した。このルールはアメリカでも、フィリピンに派遣されていたE.ブラウンの提案により1922年までには導入された。このルールの導入により、初めて公式大会が開催されるようになった。
極東ではネットの高さは初めから230センチメートルであった。女子はほとんど不明だが1931年時点の日本では200センチメートルだった。国際大会と無縁となった日本では1941年、ネット高は225センチメートルに引き下げられた。1955年から1962年まで行われたアジア選手権の極東ルール︵9人制︶ゲームにおいては230センチメートルで行われた。
国際バレーボール連盟︵FIVB︶では1947年に6人制の国際ルールを制定した。
FIVB主催の大会におけるおもなルール改正としては、以下のものが挙げられる[4][5][6]。従来はオリンピックのたびに4年ごとのルール変更だったが、1994年からは変更頻度が上がった。
●1965年 ブロックのオーバーネットの許容。
●1967年 サーブ5秒以内︵1999年に8秒以内に変更︶。
●1969年 アンテナをサイドラインから20センチメートル外側に取りつけ。ボール重量270グラム±10グラム。
●1973年 パッシング・ザ・センターラインの緩和。
●1977年 ブロックのワンタッチをカウントしない。アンテナはサイドバンド上に取りつけ。スリーボールシステム︵1試合に3つのボールを使用しデッドタイムをなくす︶の導入。
●1984年 サーブに対するブロックの禁止︵FIVBロサンゼルス五輪総会にて︶。ファーストコンタクト︵1回目のレシーブのこと︶における、ドリブル︵現在のダブルコンタクト︶を許容︵アンダーハンドのみ︶。
●1989年5セット目のみをラリーポイント制に。セット間2分間。プレー中にベンチからの指示を許可。
●1994年 サービスゾーンが、従来の右隅から3メートルの範囲から、エンドラインいっぱい︵9メートル︶に広がる︵FIVBアテネ世界選手権総会にて︶。
●1995年 膝から下での打球も反則ではなくなる。ファーストコンタクトではオーバーハンドも含め、ダブルコンタクト・ホールディング︵現在のキャッチ︶をとらないことになる。
●1998年 リベロ制の正式導入︵低身長の選手にも活躍の可能性を与えることが目的︶。ボールの内気圧の低減︵最大値を0.425kgf/cm2から0.325kgf/cm2へ︶。カラーボールの使用許可。
●1999年 サーブのネットインを認める。5セットマッチの全ラリーポイント制の導入︵サーブ権ポイント制では試合時間が一定せず、テレビ放映権が売りにくかったことによる変更︶。デュースの際の勝敗は、2点差がつくまで無制限になる。サーブ8秒以内。
●2007年 ネット上で両チームの選手がボールを押し合った場合も、プレー続行となる︵以前はプレーを止めノーカウントとした︶。
●2009年
●両足より上部の身体のいかなる部分が、相手コートに触れても、相手のプレーを妨害しない限り許される︵以前は両手などがセンター・ラインを超えて相手コートに触れると反則であった︶。
●競技者がネット︵上部の白帯とアンテナ以外︶に触れても、相手のプレーを妨害しない限り許される︵以前はネットのいかなる部分も触ると反則であった。ネットに触れてもいいものの、わざとネットを引き下げアタックを打つなどの行為をすると、スポーツマンシップに反する行為として、罰則が与えられる可能性がある︶。この変更は2014年に撤回された。
●2011年 第1リベロと第2リベロ同士の交代制限撤廃。
●2013年 前年の総会で承認された、指を用いたオーバーハンドサーブレシーブにおけるダブルコンタクト・キャッチの厳罰化適用を、実施延期と発表[7]。
●2013年
●チャレンジシステム︵ビデオ判定︶の試験導入。各チームごと、1セット2回失敗するまで要求可能。
●10月に開催するU-23世界選手権で次の2つの特別ルールを試行[8]。
(一)現行の25点制を21点制に変更、これによりテクニカルタイムアウトは8点・16点から、12点に。
(二)主審の吹笛後にサーブを打つまでの時間を、現行の8秒から15秒に変更。
●2014年 ボールをプレーする動作中の選手による両アンテナ間のネットへの接触は反則とし、2009年の緩和が撤回となった[9][10]。2015年度から適用。
●2015年 この年のW杯など、勝ち点よりも勝数が順位決定方法で優先されるようになった。
●2016年 チャレンジシステムは当該プレー後5秒以内の申請となり、ラリー中にも適用されることとなった[11][12][13]。