ムルデカ17805
『ムルデカ 17805』(ムルデカひとななはちまるご、インドネシア語: Merdeka 17805)は、2001年に公開された日本の戦争映画。インドネシア独立戦争に関わった日本兵を描いている。
ムルデカ 17805 | |
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監督 | 藤由紀夫 |
脚本 | 石松愛弘 |
製作 | 「ムルデカ17805」製作委員会 |
出演者 |
山田純大 保坂尚輝 榎木孝明 大浜詩郎 塚本耕司 阿南健治 |
音楽 | 国吉良一 |
撮影 | 戸澤潤一 |
編集 | 川島章正 |
製作会社 | 東京映像 |
配給 | 東宝 |
公開 |
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上映時間 | 122分 |
製作国 |
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言語 | 日本語 |
興行収入 | 5.5億円[1] |
概要
編集スタッフ
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- 監督:藤由紀夫
- 製作:浅野勝昭
- プロデューサー:藤井浩明、福島聡司
- 脚本:石松愛弘
- 撮影:戸澤潤一
- 音楽:国吉良一
- 音楽プロデューサー:石川光
- 音楽エンジニア:伊藤圭一
- 美術:中澤克巳
- 編集:川島章正
- 衣装:萬木利昭、中山邦夫
- 録音:宮本久幸
- スクリプター:赤澤環
- スチール:竹内健二
キャスト
編集製作の裏側
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本作は﹃プライド・運命の瞬間﹄に続き、東日本ハウスが手がけた戦争映画の第2弾である。﹃プライド・運命の瞬間﹄製作にあたって設立された子会社﹁東京映像制作株式会社﹂が製作した。しかし、本作では﹃プライド・運命の瞬間﹄と比べて予算規模は縮小されている。
当初は監督として長谷部安春が予定されていたが、長谷部の体調不良により藤由紀夫に交代となった。
本作以降東日本ハウスは、本業の不調も重なったこともあって、映画製作から撤退した。子会社の東京映像制作株式会社もこの作品以降活動を停止した。
批判
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試写会を見たプロトディニングラット駐日インドネシア大使は、﹁インドネシア人と日本人、特に若い世代の相互理解を育てることが期待されている﹂と、この映画の制作意図に理解を示した上で、インドネシアの歴史や習慣にそぐわない点があるとして、いくつかの﹁両国の摩擦を避けるために、ふさわしくない、度を超えている場面﹂の削除を求めた。その要請を請けて、それらの部分のうち、冒頭にあったインドネシアの年老いた女性が日本兵の足の甲に口づけをする場面が劇場公開前に削除された。その場面について、大使は﹁歴史の真実を反映していないだけでなく、インドネシア国民の威信を落とし、心を傷つけるものだ﹂と批判した。
シャハリ・サキディン在日インドネシア大使館参事官は、映画では侵略者の足にインドネシア人が口づけしているがそんな歴史はなく、インドネシア人はこのシーンを見て怒りを感じるだろうからこのシーンの削除を要請したと述べた。その部分の削除について制作会社は大変に協力的だったが、映画が独立戦争における日本の役割を過大評価しているので、多くの点でまだ納得のいくものではないとも語った。インドネシア側は国歌﹁インドネシア・ラヤ﹂が歌われる場面などについても﹁習慣と違う﹂と指摘している。なお同参事官は、本作の試写を見たインドネシア人たちが、本作ではまるで日本がインドネシアの独立を勝ち取ったように描かれており行き過ぎだと語っていたと述べ、映画で描かれている日本人のヒロイズムはインドネシア人には理解しがたいものだろうとも指摘した。さらに﹁この映画は虚像を作り上げようとしている――そして、ある国が優秀で、ある国は劣っているという印象を与えてしまう﹂﹁インドネシアにおける彼ら︵日本兵グループ︶の存在と、彼らが青年を訓練したことを利用したのは確かだ﹂﹁したがって、映画にはごくわずかの真実が含まれてはいる。しかし、それはごくわずかでしかない﹂﹁2000人の日本人がインドネシア解放のために戦い、彼らの半分が戦死したというのは誇張である。実際にはごく一握りであろう﹂﹁無知もはなはだしい。日本軍が来るずっとずっと前から、インドネシアは独立のために戦ってきたのだ﹂などとも述べた[7]。
関連書籍
編集- 『ムルデカ17805』 加瀬英明著 自由社 2001年 ISBN 4915237281
- 『陸軍諜報員柳川中尉』 柳川宗成著 サンケイ新聞出版局 1967年
- ※ 島崎中尉のモデルとなった柳川宗成中尉のインドネシア工作回想記。
脚注
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(一)^ ﹁2001年度 日本映画・外国映画 業界総決算 経営/製作/配給/興行のすべて﹂﹃キネマ旬報﹄2002年︵平成14年︶2月下旬号、キネマ旬報社、2002年、138頁。
(二)^ ただし銃器の一部は戦後の製品、もしくは複製品となっている。またオランダ軍役で登場するインドネシア軍兵士が着ている軍装は近年のものである。完成披露試写会
(三)^ 予告編
(四)^ 映画﹁ムルデカ17805﹂の舞台︵カリバタ英雄墓地=ジャカルタ︶
(五)^ 2000年に発行された新10万ルピア紙幣にも2605年の表記がある。映画サイト フライヤーズ・ノスタルジア
(六)^ 独立運動指導者のスカルノとハッタは、インドネシアの独立宣言文にこの日付を使用したが、これは日本軍政期は軍政当局によって皇紀を使用することが規定されていたためである。︵信夫清三郎 ﹃﹁太平洋戦争﹂と﹁もう一つの太平洋戦争﹂﹄、勁草書房、1988年、258頁。倉沢愛子 ﹁解題﹂、インドネシア日本占領期史料フォーラム編﹃証言集―日本占領下のインドネシア―﹄、龍渓書舎、1991年、755頁︶
(七)^ “じゃかるた新聞”. web.archive.org (2001年4月20日). 2021年10月5日閲覧。
関連項目
編集- カリバタ英雄墓地
- 郷土防衛義勇軍(ジャワ防衛義勇軍)
- ミュージカル南十字星
- 残留日本兵