中岡弥高
日本の陸軍軍人、政治家
経歴
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岡山県出身[1][2][3]。中岡黙陸軍少将の長男として東京で生れる[1]。岡山中学、陸軍幼年学校を経て、1901年︵明治34年︶11月、陸軍士官学校︵13期︶を卒業[1][2][4]。翌年6月、砲兵少尉に任官し野砲兵第1連隊付となる[1][4]。1907年︵明治40年︶12月、陸軍砲工学校高等科を卒業[1]。陸士教官などを経て、1912年︵大正元年︶11月、陸軍大学校︵24期︶を卒業した[1][2][3]。
1912年12月、野砲兵第17連隊中隊長となり、参謀本部付、参謀本部員、フランス留学、イタリア軍従軍などを歴任[1]。1916年︵大正5年︶4月、砲兵少佐に昇進[1]。1917年︵大正6年︶4月、陸大教官を兼務[1]。その後、近衛師団参謀、第5師団参謀を歴任し。1920年︵大正9年︶1月、砲兵中佐に進級し浦塩派遣軍司令部付となりシベリア出兵に従軍[1]。さらに同軍広報部長を務めた[1]。
1922年︵大正11年︶8月、砲工学校教官に転じ、1923年︵大正12年︶8月、砲兵大佐に昇進し野戦重砲兵第7連隊長に就任[1][3]。1924年︵大正13年︶8月、参謀本部戦史課長に異動し、東京警備参謀長、フランス大使館付武官を歴任[1][3]。1928年︵昭和3年︶8月、陸軍少将に進級[1][3]。1931年︵昭和6年︶6月、参謀本部付となり、野戦重砲兵第1旅団長を経て下関要塞司令官に就任し、1932年︵昭和7年︶12月、陸軍中将に進んだ[1][2][3]。1933年︵昭和8年︶8月、砲工学校長に転じ、1935年︵昭和10年︶3月に予備役編入となった[1][2][3]。
1937年︵昭和12年︶8月に召集され留守第16師団長に就任[1][2][3]。1939年︵昭和14年︶8月、召集解除となり[2][3]、翌月、皇戦会理事長に就任[1]。1942年︵昭和17年︶6月から10月まで、東京市会議長を務めた[1]。
戦後は公職追放となった[5]。
著書
編集- 『黒溝台会戦に於ける第八師団』偕行社、1929年。
- 『皇国臣民の責務』日本問題研究所、1940年。
- 『軍内の閥と士風』[1]