中島祐八
経歴
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上野国佐位郡赤堀村︵現在の群馬県伊勢崎市︶出身。豪農・先代中島祐八︵2代祐八、諱周教、幼名逸作、利根郡奈良村石田家より養子︶の長男として生まれ[3]、1874年︵明治7年︶に副区長、1877年︵明治10年︶に学区取締、1881年︵明治14年︶に県会議員に就任した[4]。1883年、﹁上野新聞﹂を発刊[4]。1888年、上毛民会を組織するが、秘密集会の容疑で逮捕されてしまう。結局無罪となり、改めて群馬公議会を結成した[5]。1890年︵明治23年︶の愛国公党の結党式に参加し、翌年の自由党の結党式にも出席した[5]。また日刊新聞﹁上州﹂を発刊した[4]。
1892年︵明治25年︶の第2回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、当選回数は大正2年5月補欠当選も含めて7回を数えた。
1913年11月、心臓病のため順天堂病院で死去した[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 『大正過去帳 物故人名辞典』東京美術、1973年。
- 『新選代議士列伝』金港堂、1902年。
- 山中啓一『上毛近世百傑伝(上)』1891年。