中野武彦
人物
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1927年︵昭和2年︶、大阪市東区︵現中央区︶内淡路町にあった、古くから続く薬種問屋の三男坊として生まれる。1939年︵昭和14年︶、旧制大阪府立生野中学校入学と同時に、甲子園口に転居。その後、広島高等学校に進学する。この頃から甲子園口の自宅近くに住む、若き日の畔柳二美との親交が始まった。
1951年東京大学文学部仏文科を卒業し、電通に勤務する傍ら、佐多稲子、埴谷雄高ら作家と交友を深め、﹁新日本文学﹂などに文芸評論を寄せた。畔柳二美とは約20年間、共同生活を送った。二美は1965年死亡した。武彦は二美の精神生活を支える誠実な同伴者だった。
自らも作家として活動し、自伝的な文学作品を著した。﹁樟樹﹂には武彦の幼少年期、﹁針槐﹂には中学・高校時代の生活が描かれ、﹁公孫樹﹂は二美の闘病記となっているが、佐々木基一はこれら三部作に対して、﹁プルーストだね﹂と感慨を述べたという。
2004年9月5日、原発性肝臓癌のため死去[1]。
著書
編集- 『公孫樹』せきた書房、1987
- 『針槐』新日本文学会 1992
- 『樟樹』創樹社 1997