井伊谷宮
概要
編集社名
編集創建当初は「宗良親王御社」といったが、明治5年(1872年)1月23日に地名より「井伊谷宮」と改称された。
歴史
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建武中興に際して、宗良親王は南朝方の皇族として関東各地を転戦し、元中2年︵1385年︶8月10日に井伊谷で薨去、同所に墓所がたてられた。
親王が同所滞在中、領主の井伊道政と井伊高顕に助けられたとの伝承から[1]、明治2年、末裔の井伊直憲︵彦根藩知事︶が井伊谷に宗良親王を祭る神社創建を出願し、明治天皇より勅許が下る。
明治5年︵1872年︶2月12日に鎮座祭が神祇省の役人によって行なわれた[2]。
初め社格がなく、神官を置かず、宮内省式部寮の役人が祭祀を執行していたが、明治6年︵1873年︶6月9日に白峯宮︵白峯神宮︶、鎌倉宮とともに官幣中社に列せられた[3]
年表
●明治2年︵1869年︶ - 宗良親王を祭る神社の創建が決定。
●明治5年︵1872年︶1月23日 - 宗良親王御社を井伊谷宮と称す。
●明治6年︵1873年︶
●6月9日 - 官幣中社に列した。
●12月4日 - 竜潭寺塔頭廃寺跡を社地となし、うち600坪を宗良親王の墓地に定めた[4]。
●明治11年︵1878年︶10月28日 - 静岡県令大迫貞清が井伊谷宮奉幣使として参向を命じられた[5]。
境内
編集摂末社
編集- 祭神との縁により、特に摂社として祀られた。
その他
編集- 宗良親王墓
- 宮内庁指定。
- 通常陵墓は南面するが、当墓は、平安京の方角を向いて西面している。
文化財
編集- 重要文化財
- 太刀 銘国綱
アクセス
編集脚注
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(一)^ 岡田米夫﹁神宮・神社創建史﹂30-31頁。
(二)^ ﹁宗良親王御社ヲ井伊谷宮ト称ス附鎮坐祭典官員参向・三条﹂、﹃太政類典﹄第2編︵明治4年~明治10年︶、第256巻、5。
(三)^ ﹁自峯宮并鎌倉井伊谷二宮ヲ官幣中社東照宮ヲ別格官幣社ニ列ス﹂、﹃太政類典﹄第2編︵明治4年~明治10年︶、第256巻、8。
(四)^ ﹁宗良親王御社地御墓地区別ヲ定ム﹂、﹃太政類典﹄第2編︵明治4年~明治10年︶、第256巻、6。
(五)^ ﹁井伊谷宮ヘ奉幣使参向﹂、﹃太政類典﹄第3編︵明治11年~明治12年︶、第56巻、87。
参考文献
編集- 『太政類典』、国立公文書館デジタル・アーカイブにより2011年9月閲覧。
- 岡田米夫「神宮・神社創建史」、松山能夫・編『明治維新神道百年史』第2巻、神道文化会、1966年。
公式サイト
編集- 井伊谷宮 - 公式サイト