今村信行
来歴
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信濃国伊那郡山吹村︵現・長野県下伊那郡高森町︶に旗本︵伊那衆︶座光寺氏の家臣今村文吾[2]の長男に生まれる。当時の伊那谷の流行に乗り平田篤胤の没後門人となった。旧飯田藩士について砲術、槍術を学ぶ。
明治維新後の1869年に横浜に出て、弟の妻の叔父でもある林董の紹介で、米国の医師で宣教師のジェームス・カーティス・ヘボンを知り、辞書の著述に助力した際に、ヘボンから不平等条約の解決には法制度の完備が必要であるから法律を学んだらどうかと諭されて法律家を目指し、児島惟謙の紹介で1872年司法裁判所に13等で出仕した[3]。東京裁判所詰、権少解部︵訴訟担当職員︶となり、翌年には10等出仕・権中解部に昇進、三好退蔵が山梨裁判所長に転じるときに請われて同裁判所詰になり、1877年に児島惟謙が名古屋裁判所長として赴任するとき、やはり請われて名古屋裁判所詰となり、このとき判事に昇進[3]。
1881年、東京勤務を三好退蔵に嘆願し、児島惟謙の斡旋を得て東京上等裁判所判事に転じる[3]。1882年東京控訴裁判所の判事となる。1884年岡山始審裁判所長、1886年東京控訴院評定官を経て、1894年大審院判事となる。この間、﹁民事訴訟法﹂、﹁裁判所構成法﹂の法典の編纂と施行に尽力し、法律取調報告委員や民事訴訟法調査委員などをつとめた。1884年に三好退蔵を委員長に訴訟規則取調委員会が設置され、御雇外国人の法学者ヘルマン・テッヒョー起草の民事訴訟法案の検討が進められることになり、南部甕男・栗塚省吾・本多康直らとともに委員に任命され、続く1887年には、山田顕義司法大臣を委員長とする法律取調委員会が設置され、その法律取調報告委員にも任命される[3]。
1889年に日本法律学校が創立されると、民事訴訟法担当の講師として長く教鞭を執った[3]。1900年には、大審院判事から東京控訴院︵民事︶部長に転じる[3]。1909年従三位勲二等旭日重光章を受勲。
親族
編集栄典
編集- 位階
- 1884年(明治17年)2月21日 - 正七位[5]
- 1886年(明治19年)7月8日 - 従六位[6]
- 1892年(明治25年)2月27日 - 正六位[7]
- 1899年(明治32年)2月20日 - 正五位[8]
- 1904年(明治37年)4月11日 - 従四位[9]
- 1909年(明治42年)4月30日 - 正四位[10]
- 勲章
主著
編集- 『民事訴訟法註解』
- 『民事訴訟法正解』
脚注
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(一)^ 高森町出身の有名人 名裁判官 今村信行(いまむら のぶみち)高森町、2019年9月19日。
(二)^ 大和国の医師・儒者とは別人
(三)^ abcdefghi日本法律学校講師今村信行について日本大学﹁大学史ニュース﹂第14号2018年3月5日、p6
(四)^ ﹃洪庵・適塾の研究﹄梅溪昇、思文閣出版、1993年、518頁。
(五)^ ﹃官報﹄第193号﹁叙任﹂1884年2月23日。
(六)^ ﹃官報﹄第907号﹁賞勲叙任﹂1886年7月10日。
(七)^ ﹃官報﹄第2596号﹁叙任及辞令﹂1892年2月29日。
(八)^ ﹃官報﹄第4689号﹁叙任及辞令﹂1899年2月21日。
(九)^ ﹃官報﹄第6231号﹁叙任及辞令﹂1904年4月12日。
(十)^ ﹃官報﹄第7752号﹁叙任及辞令﹂1909年5月1日。
(11)^ ﹃官報﹄第1473号﹁叙任及辞令﹂1888年5月30日。
(12)^ ﹃官報﹄第4196号﹁叙任及辞令﹂1897年6月29日。
出典
編集- 『下伊那郡誌資料 復刻版』1977年。
- 『高森の人 今村清之助・今村信行』高森町教育委員会、2006年。