佐々木康
1908-1993, 昭和期の映画監督。
佐々木 康︵ささき やすし、1908年1月25日 - 1993年9月13日︶は、昭和期の映画監督。法政大学本科国文科中退。松竹、東映、東映テレビプロダクションに属した。早撮りの名人として知られ、松竹時代は歌謡映画、東映時代は時代劇映画、東映テレビ時代はテレビ時代劇のヒット作を連発する。映画作品168本、テレビ作品500本弱を撮った、典型的なプログラムピクチャーの監督である。
ささき やすし 佐々木 康 | |
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生年月日 | 1908年1月25日 |
没年月日 | 1993年9月13日(85歳没) |
出生地 | 秋田県平鹿郡沼館村(現・横手市) |
職業 | 映画監督、テレビドラマ監督 |
活動期間 | 1929年 - 1979年 |
来歴・人物
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1908年、秋田県平鹿郡沼館村︵のち雄物川町、現・横手市︶沼館の大地主の家に生まれる。山形県立新荘中学校時代に映画に興味を持ち、1929年法政大学在学中に清水宏の助監督として松竹に入社。清水の盟友の小津安二郎組に移り、1931年助監督の身分のまま﹃受難の青春﹄で監督デビュー。その後数年間は、監督と清水の助監督の両方をこなし、1936年正式に監督に昇進。
得意のプレイバックの技術を駆使して撮影した、1939年の高峰三枝子とコロムビア歌手陣が共演した﹃純情二重奏﹄が大ヒットし、歌謡映画のヒットメーカーとしての地位を確立。戦争中は松竹の他の監督が苦手とした戦争国策映画を撮り続け、﹃撃滅の歌﹄などを手がける。
終戦後、戦後第1作の映画﹃そよかぜ﹄を撮り、その主題歌﹃リンゴの唄﹄︵歌‥並木路子︶は大ヒットし、終戦直後の日本を象徴する歌謡曲となる。1946年に公開された﹃はたちの青春﹄は、日本初のキスシーンが登場する映画と宣伝され︵実際は川島雄三の﹃追ひつ追はれつ﹄が先︶大ヒット。封切日の5月23日は﹁キスの日﹂になった。その後、監督‥佐々木、主演‥高峰三枝子、音楽‥万城目正のトリオで作った歌謡映画﹃懐しのブルース﹄、﹃別れのタンゴ﹄、﹃思い出のボレロ﹄、﹃情熱のルムバ﹄がことごとくヒット。
1952年、東映の制作部長のマキノ光雄に誘われ、東映に移籍。翌年1953年に﹃憧れの星座﹄︵主演‥高千穂ひづる︶、その後﹃旗本退屈男﹄などの市川右太衛門作品、美空ひばり作品を中心に時代劇映画を撮り続け、松田定次に次ぐ東映の時代劇監督として君臨。松田が正統派の時代劇をとったのと比べると、佐々木は松竹時代の経験を生かして、時代劇に歌謡映画の要素を取り込んだ。この時代の佐々木は映画一本100〜130万の高給を取っていたが、スタッフを祇園に引き連れて豪遊し続けたため、そのことごとくを使い果たし、佐々木の妻は月15万円の専属料をこつこつと貯めてアパートを建てる。
1964年、東映京都撮影所で大リストラが敢行された際、ギャラの高い佐々木は専属契約を解除され、東映テレビプロダクションに移籍。﹃銭形平次﹄を中心に時代劇を撮り続け、黎明期の東映テレビの発展に大きく貢献する。
1979年引退。現役時代の豪遊とはうってかわって、妻の建てたアパートの家賃で細々と暮らし、1993年急性肺炎のため死去。85歳没。1994年、日本アカデミー賞会長特別賞が贈られた。
備考
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●ズーズー弁をしゃべるため、師匠の清水宏に﹁ズー﹂と綽名され、愛称として定着。
●大酒飲み、気さくな性格、親分肌、面倒見が良く、﹃君の名は﹄︵1953年 - 1954年︶の監督の大庭秀雄や、佐々木が東映に移籍した後の松竹のプログラムピクチャーを支えた﹃この世の花﹄︵1955年︶の穂積利昌、﹃サラリーマンの勲章﹄︵1965年︶の堀内真直、﹃湖愁﹄︵1962年︶の田畠恒男を育てた。とくに後者の3監督は、早撮り、親分肌、大酒飲みという師匠の気質をも受け継いだ。
関連書籍
編集- 楽天楽観 映画監督佐々木康(ワイズ出版) 円尾敏郎編 ISBN 9784898301609
外部リンク
編集- 佐々木康 - allcinema
- 佐々木康 - KINENOTE
- 佐々木康 - 日本映画データベース
- Yasushi Sasaki - IMDb