侍講
明治時代に天皇や皇太子について書物の講義をした官職
明治官制
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明治時代にあっては、天皇や皇太子について書物の講義をする官職である[1]。ただし、皇后や皇太后にも進講は行われた[2]。
﹃太政類典﹄によると明治元年6月15日に﹁侍読ヲ設ク﹂という記事があり、皇学所御用掛をもって侍講に任じられたのが平田延胤︵大角︶、漢学所御用掛をもって侍講に任じられたのが中沼了三︵葵園︶であった[2]。﹃太政類典﹄の同日の記事は題では﹁侍読﹂であるが、本文では﹁侍講﹂となっており、また﹃明治天皇紀﹄では﹁侍読﹂である[2]。
﹃明治天皇紀﹄によると、その後、明治3年12月4日に加藤弘之、明治4年5月30日に中沼に代わって元田永孚、同年8月15日に西周が﹁侍読﹂に任じられている[2]。
明治8年1月には﹁侍読﹂を改称して﹁侍講﹂の制を定めて宮内省官制の中に位置づけ[2][3]、福羽美静が二等侍講、加藤弘之が三等侍講、元田永孚が四等侍講に任じられた[2]。
明治10年8月には侍講局が設置され[2][3]、明治12年には御系譜掛や御陵墓掛なども包摂して組織は拡大した[3]。
しかし、侍講の制は明治18年10月で廃止となり[2]、侍講局の業務も次第に解体されて明治19年2月の官制改正により廃止された︵文書は図書寮へ引き継がれた︶[3]。
なお、皇太子の教育係としての東宮侍講はその後も任じられ、嘉仁親王︵後の大正天皇︶の東宮侍講として川田甕江や三島中洲が任じられている[4]。