ホーム
おまかせ表示
付近
ログイン
設定
寄付
ウィキペディアについて
免責事項
検索
北郷敏久
言語
ウォッチリストに追加
編集
北
郷
敏
久
︵
ほ
ん
ご
う
と
し
ひ
さ
︶
は
、
室
町
時
代
の
日
向
の
武
将
。
北
郷
氏
6
代
当
主
。
5
代
当
主
北
郷
持
久
の
嫡
男
。
持
久
が
大
覚
寺
義
昭
事
件
に
連
座
し
て
都
城
を
追
わ
れ
て
以
来
、
24
年
振
り
に
北
郷
氏
の
本
拠
地
で
あ
る
都
城
へ
復
帰
し
た
。
凡例
北郷敏久
時代
室町時代
中期 -
戦国時代
生誕
永享
2年(
1430年
)
死没
明応
9年(
1500年
)
改名
義久
別名
次郎(通称)、讃岐守
戒名
二巌寺殿歓翁道喜大禅定門
墓所
宮崎県
日南市
南郷町
中村乙の西明寺
氏族
北郷氏
父母
父:
北郷持久
、母:
和田匡盛
の娘
兄弟
敏久
、
用棟
、
久宣
、女、
辰久
、
常久
妻
野辺盛仁
の娘
子
数久
、女(
樺山長久
室)、忠栄、近久、久陸
テンプレートを表示
生涯
編集
応
仁
2
年
︵
1
4
6
8
年
︶
、
庄
内
瀬
田
ケ
辻
︵
現
在
の
宮
崎
県
都
城
市
庄
内
町
︶
に
安
永
城
を
築
き
、
持
久
と
と
も
に
居
城
と
し
た
。
築
城
に
際
し
、
薩
州
家
の
島
津
国
久
や
豊
州
家
の
島
津
季
久
が
助
勢
し
た
と
伝
え
ら
れ
て
い
る
。
文
明
8
年
︵
1
4
7
6
年
︶
、
島
津
宗
家
11
代
島
津
忠
昌
の
命
に
よ
り
都
城
を
回
復
す
る
こ
と
が
で
き
た
が
、
忠
昌
が
若
年
と
い
う
こ
と
も
あ
り
、
島
津
氏
の
勢
力
に
は
翳
り
が
み
ら
れ
領
内
に
は
戦
乱
が
続
い
た
。
文
明
17
年
︵
1
4
8
5
年
︶
、
伊
作
家
の
島
津
久
逸
が
日
向
の
伊
東
祐
国
や
北
原
氏
と
共
謀
し
て
島
津
宗
家
に
叛
旗
を
翻
し
た
。
祐
国
ら
は
日
向
飫
肥
の
新
納
忠
続
を
攻
め
た
の
で
、
忠
昌
は
敏
久
に
先
鋒
を
命
じ
自
ら
も
出
陣
し
た
。
敏
久
は
祐
国
を
討
ち
取
り
、
忠
昌
は
敏
久
に
褒
賞
と
し
て
中
郷
3
0
0
町
を
与
え
た
。
参考文献
編集
『都城市史』
『高城町史』
瀬戸山計佐儀『都城島津家歴代史 全』三州文化社、1992年
『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年