原弘三
経歴
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越中国新川郡塚原村[1]︵石川県上新川郡塚原村、富山県[2]上新川郡新保村[3]、富南村を経て現富山市塚原︶で、浄土真宗本願寺派教順寺・9世玄正︵げんしょう︶の長男として生まれた[1]。京都の真宗学林︵現龍谷大学︶、高岡の野上文山の待賢堂、豊後国日田の咸宜園で学んだ[1]。1868年︵明治元年︶還俗して原弘三を名乗り[1]、東京湯島の亀谷省軒塾に入る[1]。富山藩改革派林太仲と知り合う[1]。
1870年︵明治3年9月︶太仲が富山藩大参事に就任すると[1]、原も権小属となり[1]、同年12月19日︵同3年閏10月27日︶に発せられた﹁合寺令﹂に基づき藩内400余カ寺を一宗一寺に合併を強行した︵富山藩合寺事件︶[1][4]。寺院、民衆の強い反発を受けてこの政策は頓挫し[4]、1871年︵明治4年︶に免官となる[1]。
1873年︵明治6年︶から盛岡警察署長︵現盛岡東警察署︶、茨城県学務課長、同県豊田郡長、同結城郡長、同岡田郡長、秋田女子師範学校長、秋田県南秋田郡長兼河辺郡長、同仙北郡長などを歴任[1][2][3]。1889年︵明治22年︶7月、富山県婦負郡長となる[1][2][3]。
1892年︵明治25年︶2月、第2回衆議院議員総選挙︵富山県第1区、中央交渉会︶で当選し[1][5]、1894年︵明治27年︶3月の第3回総選挙︵富山県第1区、無所属︶でも再選され[5]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。
1894年7月、富山県射水郡長に就任[1][2][3]。その後、新保村会議員、内野銀行頭取、越中商行銀行頭取などを務めた[1][2][3]。晩年は合寺事件で解体した生家・教順寺本堂の再建に尽力した[1]。
脚注
編集参考文献
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●﹃衆議院議員総選挙一覧 上巻﹄衆議院事務局、1915年。
●﹃総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回﹄衆議院事務局、1940年。226
●衆議院・参議院﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。
●﹃富山大百科事典 下巻﹄北日本新聞社、1994年。