吉永祐介
瑞宝大綬章 吉永祐介 | |
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検事総長 | |
任期 1993年12月13日 – 1996年1月16日 | |
任命者 | 細川内閣 |
前任者 | 岡村泰孝 |
後任者 | 土肥孝治 |
個人情報 | |
生誕 | 1932年2月14日 岡山県 |
死没 | 2013年6月23日(81歳没) |
出身校 | 岡山大学法文学部 |
専業 | 弁護士 |
来歴・人物
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日通事件、ロッキード事件など数多くの事件を東京地検特捜部で手がけ、俗にいう“現場派”として検事総長を歴任。2004年︵平成16年︶4月29日、瑞宝大綬章受章。
ロッキード事件の際、吉永副部長は新聞記者に対して﹁黙れ﹂﹁とにかく今後P3Cと書くことはならん﹂と言い、違反したら地検の会見には出させないと脅した。翌日からP3Cが紙面からきれいさっぱり消えたという。また、実質的な司法取引による刑事免責を与えられたロッキード社幹部のアーチボルド・コーチャンの証言について、吉永副部長は﹁米国人は聖書に手を置いて証言するから嘘は言わない﹂と新聞記者に言ったという[1]。警察から情報が漏れていると考えていた[2]。
氏名の正式な表記は﹁吉﹂は異体字︵﹁士=さむらい﹂の部分が﹁土=つち﹂︶、﹁祐﹂は旧字体︵示へんに右︶であり、検事総長の官記︵及び辞令書︶にもその表記が使用された。
略歴
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●1932年︵昭和7年︶2月 四姉弟の長男として衣料品販売業の家に生まれる。
●岡山県西大寺中学校︵現・岡山県立西大寺高等学校︶を飛び級の4年で修了し、旧制第六高等学校へ進学。のちの通産事務次官の小長啓一が同窓にあたる。
●学制改革で第六高等学校が岡山大学に包括され、法文学部を卒業。在学中に司法試験合格。
●1955年︵昭和30年︶ 検事任官。以後、東京地検、長野地検、札幌地検、東京地検八王子支部などに勤務。
●1964年︵昭和39年︶3月 東京地検特捜部に異動。
●1967年︵昭和42年︶ 日通事件発生
日本通運の福島敏行前社長の取調べにあたる。
●1972年︵昭和47年︶8月 法務省刑事局参事官に就任。
●1975年︵昭和50年︶1月 東京地検特捜部副部長に就任。
●1976年︵昭和51年︶ 東京地検特捜部の副部長。
ロッキード事件の主任検事を務める。
●1978年4月︵昭和53年︶ 東京地検特捜部長に就任。
ダグラス・グラマン事件捜査の指揮を執る。
●1980年︵昭和55年︶6月 最高検察庁検事に就任。
●1982年︵昭和57年︶11月 東京地検次席検事に就任。
●1984年︵昭和59年︶11月 宇都宮地検検事正に就任。
●1985年︵昭和60年︶12月 最高検公判部長に就任。
●1988年︵昭和63年︶12月19日 東京地検検事正に就任。
この異動は検事総長の前田宏の直接指示による。
●1989年︵平成元年︶5月29日 リクルート事件の捜査終結宣言を検事正談話として行う。
●1991年︵平成3年︶3月28日 広島高検検事長に就任。
このポストは次の大阪高検検事長で定年を迎える︵実力ある捜査官だが中枢には行けない︶検事のコースと見られていた。
●1992年︵平成4年︶9月28日 東京佐川急便事件が発生
金丸信副総理が5億円を受け取りながら、政治資金規正法第22条の2の寄付金の量的制限違反の罪︵罰金20万円以下︶で略式起訴となったが、同様に1億円を受け取った金子清前新潟県知事が政治資金規正法第25条の虚偽記載の罪︵禁錮5年以下︶の疑いで正式起訴︵後に、禁錮1年・執行猶予3年の判決︶されたことに、怒りの電話や投書が東京地検に殺到し、石碑にペンキを投げつけられた。現役の検察首脳の一人である佐藤道夫札幌高検検事長︵後に参議院議員︶も9月29日付朝日新聞で批判する異例の事態となった。
●1992年︵平成4年︶12月12日 宮澤喜一内閣が改造し、法務大臣に後藤田正晴が入閣した。
その後藤田の就任第一声が﹁吉永君はどこにいるのか﹂であった。
●1993年︵平成5年︶7月2日 東京高検検事長に就任。︵大阪高検からの異動は異例中の異例︶
後藤田の存在と現場の﹁吉永コール﹂に応える形で、定年を迎えた藤永幸治の後任として就任。
●1993年︵平成5年︶12月13日 第18代検事総長に就任︵旧制大学出身以外としては初︶。
●1996年︵平成8年︶1月16日 任期を1年残して勇退。
後任の検事総長は“赤レンガ派”の根来泰周を飛ばして[3]、同じく“現場派”の土肥孝治。
●1996年3月︵平成8年︶ 弁護士登録。
●1996年6月︵平成8年︶ 株式会社ベネッセコーポレーション監査役。
●1998年6月︵平成10年︶ 東京海上火災保険株式会社監査役
●2001年5月︵平成13年︶ 株式会社大丸監査役
●2004年︵平成16年︶4月 瑞宝大綬章受章。
●2004年︵平成16年︶12月 同年に発生した輸入BSE牛肉偽装問題で、10名の逮捕者を出したハンナン・グループ立て直しを図る﹁コンプライス委員会﹂の委員長を2004年︵平成16年︶12月から2006年︵平成18年︶6月まで務めた。
●2013年︵平成25年︶6月23日、肺炎により死去[4][5]。81歳没。歿日付で正三位に叙された。
参考文献
編集脚注
編集- ^ 高山正之『サンデルよ、「正義」を教えよう』
- ^ NHKスペシャル未解決事件
- ^ 「霞ヶ関ウォッチング」 文藝春秋2010年12月号
- ^ 訃報:ロッキード事件指揮、吉永祐介さん死去81歳 毎日新聞 2013年6月28日閲覧
- ^ “吉永元検事総長が死去 特捜の顔、ロッキード事件指揮”. 共同通信. (2013年6月28日) 2014年11月14日閲覧。