呉港
広島県呉市の港
呉港 | |
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歴史の見える丘付近からの中央桟橋付近 ドックの奥に中央桟橋が見える | |
所在地 | |
国 |
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所在地 | 広島県呉市 |
座標 | 北緯34度14分26.3秒 東経132度33分23秒 / 北緯34.240639度 東経132.55639度座標: 北緯34度14分26.3秒 東経132度33分23秒 / 北緯34.240639度 東経132.55639度 |
詳細 | |
開港 | 1889年(明治22年) |
管理者 | 呉市 |
種類 | 重要港湾 |
係留施設数 | 14バース[1] |
統計 | |
統計年度 | 2007年 |
貨物取扱量 | 23,755,000トン[2] |
概要
編集沿革
編集呉軍港開設
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元々この地は江戸時代まで半農半漁の寒村で歴史の表舞台に立つことはなかった[3]。現在もこの地域の主要航路である音戸の瀬戸が、1164年︵長寛2年︶に開通したと伝えられている[4]。
明治に入り、第二海軍区軍港が開港することそして広島県に鎮守府が置かれることが決定し、呉・三原や江田島が候補地として挙がり、1883年︵明治16年︶から測量の結果、1884年︵明治17年︶呉に置かれることが決まった[5]。1885年︵明治18年︶8月4日、山陽行幸の帰る途中であった明治天皇は、船上よりこの地を視察している[5]。
1886年勅令第31号をもって軍港境界が定められ、真木長義中将を建築委員長、佐藤鎮雄大佐を副建築委員長とし、1887年︵明治20年︶11月起工した[6]。施工業者を藤田組︵フジタ︶・大倉組︵大成建設︶がつとめ、1万人を超える人夫が現場に入っていたものの、両社が競い合って進めていた中で人夫のいざこざが絶えず流血騒ぎまで発展した[6]。そこで海軍主導で両社を一つの企業“日本土木会社”として働くよう仲をとりもったことで、以降の工事は順調に進んでいった[6]。1889年︵明治22年︶3月末竣工[6]。
1889年︵明治22年︶7月1日呉鎮守府が開庁、以降軍港として急速に発展していく[6][3][4]。
近代/現代
編集-
1924年呉市都市計画図
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1932年頃の呉軍港
(本校郷土教育と郷土読本より) -
1945年呉市戦災概況図
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1945年にアメリカ軍が作成した広地区(中央左)と仁方地区(右下)の地図
1903年︵明治36年︶呉海軍工廠が設立されると[4]、日本一の海軍工廠と言われる程にまで発達していく[3]。当初は安芸郡和庄村・宮原村・荘山田村・警固屋村の4村つまり現在の呉港区で開発が始まり[7]、1921年︵大正10年︶呉鎮守府広支廠︵広海軍工廠︶が設立されると広港区が、戦中である1942年︵昭和17年︶内務省直轄工事として仁方港区が開発された[4]。
こうした状況から太平洋戦争末期にはアメリカ軍の爆破目標となり、1945年︵昭和20年︶3月呉軍港空襲を受け機能停止に陥った。戦後は呉工廠は閉鎖され運用停止[4]、空襲により都市機能も落ち[3]、その中でイギリス連邦占領軍の管轄となった。1948年︵昭和23年︶﹁呉港貿易港﹂に指定され改めて民間も利用できる貿易港として開港することとなる[3]。1950年︵昭和25年︶旧軍港市転換法施行により占領軍から返還され、旧呉工廠に民間企業招致が始まる[4][3]。
そして1951年︵昭和26年︶呉港は﹁重要港湾﹂に指定され、1952年︵昭和27年︶ 呉市が港湾管理者に認可され、現在に至っている[4][3]。
航路
編集呉港区
編集- 呉中央桟橋
- 天応桟橋(呉ポートピアパーク隣接)
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天応桟橋(陸側)
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天応桟橋(待合室)
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天応桟橋(海上側)
広港区
編集- 阿賀港
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阿賀港(阿賀マリノターミナル)
-
旧・阿賀港(陸側)
-
旧・阿賀港(陸側)
仁方港区
編集-
仁方桟橋(陸側)
休止・廃止航路
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●国鉄仁堀連絡船-1982年7月1日航路廃止
●仁方港〜堀江港︵愛媛県松山市︶
●広別汽船
●呉港〜広島港〜別府国際観光港︵大分県別府市︶
●ソレイユエクスプレス - 2005年2月より運航休止。
●呉港〜広島港〜柳井港︵山口県柳井市︶〜別府国際観光港︵大分県別府市︶
●広今あきなだ高速 - 2006年11月30日をもって廃止。
●広島港〜呉港〜宮盛港〜豊島港〜久比港〜大長港〜今治港
●山陽商船 - 2007年6月30日をもって廃止。
●仁方港〜宮盛港〜豊島港〜久比港〜大長港〜御手洗港︵大崎下島︶
●呉・松山フェリー- 2009年6月30日をもって廃止。
●阿賀港〜堀江港
●大昭汽船
●呉港〜柿浦港︵広島県江田島市︶〜大君港︵広島県江田島市︶- 2009年4月より運航休止。
●呉港〜秋月港︵広島県江田島市︶- 2010年10月31日をもって廃止。2010年11月1日からバンカー・サプライが運航を継承。
●せと観光ボート
●仁方港〜宮盛港︵上蒲刈島︶〜豊島港︵豊島︶〜久比港︵大崎下島︶〜大長港︵大崎下島︶〜今治港︵愛媛県今治市︶- 2008年11月19日廃止。
●呉中央桟橋〜豊島港︵豊島︶〜大長港︵大崎下島︶〜御手洗港︵大崎下島︶〜今治港︵愛媛県今治市︶- 2011年3月23日をもって、呉中央桟橋 - 豊島港︵豊島︶間の運航を廃止し、航路を 大長港︵大崎下島︶- 今治港間としたが2011年8月21日まで運航後に廃止[9][10]。
脚注
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(一)^ 呉港区・広港区の合計。呉港の施設︵公式サイト︶
(二)^ 呉港の統計︵公式サイト︶
(三)^ abcdefghi“呉港の概要”. 呉市. 2013年11月9日閲覧。
(四)^ abcdefg“呉港の歴史”. 呉市. 2013年11月9日閲覧。
(五)^ ab大呉市民史, p. 24.
(六)^ abcde大呉市民史, p. 25.
(七)^ 杉山輯吉﹁呉港土工ノ実況﹂︵PDF︶﹃工学会誌﹄第63巻第6号、日本工学会、1887年、2013年11月9日閲覧。
(八)^ “呉〜小用航路の運航会社の社名変更について”. 呉市産業部港湾振興課 (2011年6月1日). 2011年8月6日閲覧。
(九)^ “せと観光ボート有限会社のダイヤ変更について”. 国土交通省四国運輸局 (2011年3月3日). 2011年4月1日閲覧。
(十)^ “大長-今治航路が廃止 豊島大橋の開通で利用客減少”. 47NEWS (2011年8月21日). 2011年8月22日閲覧。[リンク切れ]
参考文献
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●呉新興日報社﹃大呉市民史. 明治篇﹄︵原著1943年︶。2015年2月20日閲覧。
関連項目
編集外部リンク
編集- 呉港の概要 - 呉市