国重正文
幕末の長州藩士、明治期の内務官僚・教育者・神職
経歴
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長門国阿武郡萩土原︵現山口県萩市︶で、安芸武田氏の流れを汲む長州藩大組士・国重三郎兵衛恒升の長男として生まれた。藩校・萩明倫館で学ぶとともに、吉田松陰からも山鹿流兵学を学んだ[5][6]。文久元年︵1861年︶家督を継ぎ浜崎代官に就任。さらに、当島代官、大組物頭御軍制総掛、山口明倫館頭人役を歴任した[3][4]。
維新鴻業で果たした役割として夙に知られる事跡は少ないものの、滋賀県大津市の円満院門跡坊官西坊家では、第8代当主暹胤の後室由里の実兄で第9代当主七造の実父が国重正文であるとしており、西坊家に伝わる口伝として①京都の池田屋事件の時には新選組より逃れた一人である②明治維新の頃には桂小五郎と一緒に行動していた――等の秘話を伝えている[7]。国重正文が桂小五郎と一緒に行動していたことは﹃木戸孝允文書﹄︵日本史籍協会叢書︶等で裏付けられる。
明治2年︵1869年︶、吉田県令︵現山口県下関北部︶に就任[5]。明治5年︵1872年︶、明治政府に出仕し、京都府少参事、権参事、参事、大書記官などを歴任。
明治16年︵1883年︶5月、富山県の新置とともに富山県令に登用され、石川県からの分離独立運動の根拠とされた治水や土木事業に取り組んだ他、教育の充実にも努め、明治17年︵1884年︶には財政難から反対意見も根強い中、中学校設置を提案。民間からの寄付も仰ぎ、明治18年︵1885年︶1月の富山県中学校︵現富山県立富山高等学校︶の開校にこぎ着けた[5]。明治19年︵1886年︶7月、地方官官制改正に伴い同県知事となる。
明治21年︵1888年︶10月、内務省社寺局長に転身[8]。明治26年︵1893年︶6月1日、同省を依願免本官[9]。以後、國學院院長[3]、帝室博物館理事・歴史美術工芸部長[5]を経て明治32年︵1899年︶5月、伏見稲荷大社宮司となり、在任中に死去した[10]。享年61歳。墓所は京都市の黄梅院にある[5]。法号は正徳院殿文宗半山大居士[7]。
栄典・受章・受賞
編集- 位階
- 1883年(明治16年)6月28日 - 従五位[11]
- 1892年(明治25年)2月22日 - 正五位[12]
- 1893年(明治26年)6月20日 - 従四位[13]
- 1901年(明治34年)10月26日 - 正四位[14]
- 勲章等
松桜閣
編集脚注
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(一)^ ﹃日本人名大辞典﹄679頁。
(二)^ ﹃幕末維新大人名事典﹄上巻、476頁。
(三)^ abc﹃明治維新人名辞典﹄359頁。
(四)^ ab﹃新編日本の歴代知事﹄422頁。
(五)^ abcde廣瀬久雄﹁富山県の基礎を固めた初代知事 國重正文﹂﹃越中人譚﹄第55巻、チューリップテレビ、2003年1月、4-6頁。
(六)^ 福本椿水﹃松陰先生交友録﹄惜春山荘、1928年10月、200頁。
(七)^ ab西坊義信﹃西坊家口伝集続々﹄西坊義信、2015年2月、8-9頁。
(八)^ ﹃日本官僚制総合事典‥1868 - 2000﹄92頁。
(九)^ ﹃官報﹄第2977号、明治26年6月3日。
(十)^ ﹁稲荷神社宮司従七位勲五等国重正文特旨ヲ以テ位一級被進ノ件﹂
(11)^ ﹃官報﹄第7号﹁叙任及辞令﹂1883年7月9日。
(12)^ ﹃官報﹄第2591号﹁叙任及辞令﹂1892年2月23日。
(13)^ ﹃官報﹄第2992号﹁叙任及辞令﹂1893年6月21日。
(14)^ ﹃官報﹄第5497号、明治34年10月28日。
(15)^ ﹃官報﹄第151号﹁賞勲叙任﹂1883年12月27日。
(16)^ ﹃官報﹄第1791号﹁叙任及辞令﹂1889年6月20日。
(17)^ ﹃官報﹄第1932号﹁叙任及辞令﹂1889年12月5日。
(18)^ abc﹃まんまる﹄2022年9月号︵北日本新聞社編集・発行︶10 - 11頁
参考文献
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●歴代知事編纂会編﹃新編日本の歴代知事﹄歴代知事編纂会、1991年。
●秦郁彦編﹃日本官僚制総合事典‥1868 - 2000﹄東京大学出版会、2001年。
●日本歴史学会編﹃明治維新人名辞典﹄吉川弘文館、1981年。
●安岡昭男編﹃幕末維新大人名事典﹄上巻、新人物往来社、2010年。
●上田正昭他﹃日本人名大辞典﹄講談社、2001年。
●﹁稲荷神社宮司従七位勲五等国重正文特旨ヲ以テ位一級被進ノ件﹂ アジア歴史資料センター Ref.A10110085700
●岡部忠夫編﹃萩藩諸家系譜﹄琵琶書房、1983年。
●西坊編﹃西坊家口伝集続々﹄、2015年。
●﹃初代県知事 国重正文 元私邸 松桜閣︵若栗・天真寺︶パンフレット﹄NPO法人﹁松桜閣﹂保勝会
学職 | ||
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先代 高崎正風 |
國學院院長 1894年 - 1896年 |
次代 佐佐木高行 |