堀江覚治
経歴
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陸奥国磐前郡、のちの福島県[3]磐前郡鹿島村︵石城郡鹿島村[5]、小名浜町、磐城市を経て現いわき市鹿島町︶の志賀家に生まれる[2]。1895年︵明治28年︶8月、伊達郡梁川村︵梁川町[1]を経て現伊達市梁川町︶の堀江里の養子となり[2]、1898年︵明治31年︶10月、家督を相続した[2]。1890年︵明治23年︶慶應義塾大学部文科を卒業[1][2][3][5]。
郷里の石川義塾︵現学校法人石川高等学校・石川義塾中学校︶講師に就任[1][2][3][5]。岐阜日日新聞︵現岐阜新聞︶から招聘され主筆となる[1][2][3][5]。また梁川第百一銀行監査役も務めた[1][2][3][5]。第4軍司令部付陸軍通訳に就任し日露戦争に従軍した[1][2][3][5]。満州に堀江組を設立し、移民、その他の事業を営んだ[1][2][3][5]。
1903年︵明治36年︶3月、第8回衆議院議員総選挙︵福島県郡部、中正倶楽部︶で初当選し[6]、1908年︵明治41年︶5月の第10回総選挙︵福島県郡部、無所属︶でも再選され[7]、衆議院議員に通算2期在任した[1][2][3][5]。
国政選挙歴
編集- 第7回衆議院議員総選挙(福島県郡部、1902年8月、無所属)次点落選[6]
- 第8回衆議院議員総選挙(福島県郡部、1903年3月、中正倶楽部)当選[6]
- 第9回衆議院議員総選挙(福島県郡部、1904年3月、無所属)落選[6]
- 第10回衆議院議員総選挙(福島県郡部、1908年5月、無所属)当選[7]
- 第11回衆議院議員総選挙(福島県郡部、1912年5月、中央倶楽部)落選[7]
親族
編集- 妻 堀江ハマ(養父長女)[2]
脚注
編集参考文献
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●人事興信所編﹃人事興信録 第3版﹄人事興信所、1911年。
●衆議院事務局編﹃衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回﹄衆議院事務局、1918年。
●﹃福島県史 第22巻 (各論編8人物)﹄福島県、1972年。
●﹃総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回﹄衆議院事務局、1940年。
●衆議院・参議院﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。