大新聞と小新聞
明治初期に行われた新聞の二大別
経緯
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事件を報せる新聞は、承保︵1674年 - 1677年︶・元禄︵1688年 - 1704年︶頃から、不定期に出たと言う。それが黒船の頃から盛んになり、明治となり、政府の方針と新聞の論説とが、相反することもあった。
その頃、京浜地区で政論を主張する知識階級向け新聞には、横浜毎日新聞︵1870年1月︵明治3年︶創刊︶・東京日日新聞︵1872年5月創刊︶・郵便報知新聞︵1872年6月創刊︶・朝野新聞︵1874年9月改題新出発︶・東京曙新聞︵1875年改題新出発︶などがあったが、かたわら、庶民向けの娯楽新聞も、読売新聞︵1874年11月創刊︶・平仮名東京絵入新聞︵1875年4月創刊︶︵のち、東京絵入新聞︶・仮名読新聞︵同11月創刊︶など続々と現れた。そして1875年末頃から、それ等に﹁小新聞﹂と言う名が付いた。政論の新聞の方は﹁大新聞﹂である。
京阪地区の小新聞には、浪花新聞︵1875年12月創刊︶・朝日新聞︵1879年1月創刊︶などがあった。
大新聞と小新聞との違いは、ほぼ、次だった︵以下、﹁大﹂﹁小﹂と書く︶。
●一面の寸法は、大がブランケット判︵405×546mm︶で、小はその半分のタブロイド判︵273×406mm︶。
●文章は、大が漢文口調で、小は総ルビの口語体。例えば、
紙ヲ展ベ筆ヲ握ツテ讒謗ノ律ヲ調ベ條例ノ文ヲ誦ス。少焉アツテ汗両腋ノ下ヨリ出デテ横腹ノ邊ニ沾滴ス。心配胸ニ横ワリ困苦肝ニ銘ス — 成島柳北‥﹃辟易賦﹄の一部、﹃朝野新聞﹄1875年8月17日
君︵あなた︶はまだ読売新聞︵よみうりしんぶん︶を御存知︵ごぞんじ︶ないと見︵み︶えるそれこそ太政大臣︵だじゃうだいじん︶より下︵しも︶は挽車︵くるまひき︶に至︵いた︶るまで苦︵く︶なしに読︵よめ︶て上下︵うえした︶へよく分︵わか︶る実︵じつ︶に善︵よ︶い益︵ため︶になる物︵もの︶だ — ﹃読売新聞﹄1874年12月14日
●大は政治・政論・国際関係の記事が主で、小は巷の出来事・演芸・読み物の記事が主。
●小は挿絵入り。
●値段は小が大の半分以下。
安くて肩の凝らない方が好まれ、1876年︵明治9年︶の時点で、小新聞の読売は、大新聞の東京日日の1.5倍を売り、両者の差は年と共に広がった[1]。
1881年︵明治14年︶、大新聞が求めた国会開設が、10年先の1890年︵明治23年︶と決まった︵国会開設の詔も参照︶。そして、板垣退助らの自由党・大隈重信らの立憲改進党・福地源一郎らの立憲帝政党が結成されると、自由は自由党系、郵便報知・東京横浜毎日︵横浜毎日の後身︶・朝野は改進党系、東京日日は帝政党系など、政党機関紙的な派閥ができ、読者そっちのけで、大新聞同士が議論し、中傷し、いがみ合い、世を白けさせ、部数を減らした。
小新聞の側では、読売と朝日が既に1879年︵明治12年︶からルビ付きの論説欄を設け、それが他紙にも広まった。
1886年︵明治19年︶、郵便報知は、娯楽・三面記事を載せルビを添える紙面の大衆化に踏み切った。格調に拘り続ける大新聞は衰退した。大新聞と小新聞は互いに近付き、呼び分けも消えた。
出典
編集- 土屋礼子:『大衆紙の源流 - 明治期小新聞の研究』、世界思想社(2002) ISBN 4790709620
- 片山隆康:『明治新聞物語』、大阪経済法科大学出版部(1989) ISBN 9784872040111
脚注
編集- ^ 土屋礼子:『大衆紙の源流』、p.273