大連 (古代日本)

古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職

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概要

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6鹿鹿鹿輿輿退6輿

異説

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こうした通説に対して1980年代以降、黒田達也[1]倉本一宏[2]から「ヤマト王権(大和朝廷)の職制として存在したのは大臣だけで、大連の職制は存在しなかった」「大臣は"オホオミ"ではなく氏族合議体の主宰・代表者である"オホマヘツキミ"であった」という説を唱えた。これに対して大連も"オホマヘツキミ"であったとみる篠川賢[3]加藤謙吉[4]、大臣は"オホオミ"が正しいとする一方で大連は連の姓を持つ大臣に対して『日本書紀』の編纂者が付与した称号(大伴金村や物部守屋らは大臣に任命された連姓である)で大連という職制があった訳ではないとみる佐藤琢郎[5]などの反論が出されている。

大連の一覧

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日本書紀に記述のある大連

脚注

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  1. ^ 黒田「日本古代の「大臣」」『朝鮮・中国と日本の古代大臣制-「大臣・大連制」についての再検討>京都大学学術研究会、2007年(初出は1983年)
  2. ^ 倉本「氏族合議制の成立ー「オホマヘツキミ-マヘツキミ」制ー」『日本古代国家成立期の政権構造』吉川弘文館、1997年(初出は1991年)
  3. ^ 篠川「物部氏の成立」『東アジアの古代文化』95号、1998年や同『継体天皇』吉川弘文館〈人物叢書〉、2016年など
  4. ^ 加藤『大和の豪族と渡来人-葛城・蘇我氏と大伴・物部氏-』吉川弘文館、2002年
  5. ^ 佐藤「大臣制の成立と日本古代の君臣秩序」『古代日本の大臣制』塙書房、2018年

関連項目

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