姚弋仲
家系
編集生涯
編集
南安郡赤亭︵現在の甘粛省定西市隴西県の西部︶の出身[2]。永嘉の乱が起こると、数万人の羌族や漢族を率いて隃麋に移動した[2]。太寧元年︵323年︶、前趙の劉曜が現在の甘粛省東部に進出した際に姚弋仲は帰順した[2]。咸和3年︵329年︶、前趙が石勒の後趙に滅ぼされて関中が後趙支配下になると、後趙に帰順した[3]。後趙で石虎が即位すると、数万の部族民を率いて清河に移住する[3]。この際に姚弋仲は石虎に対して秦州や雍州の豪族を関東に移すべきと進言して受け入れられているので、以後は後趙を支える有力な部族長となった[3]。
石虎の死後、後趙はその養孫の冉閔の反乱と冉魏の建国で大混乱となる[3]。姚弋仲は実質的には自立しながらも後趙に味方しているが、一方で関中の覇権をめぐって前秦とも争っている[3][4]。永和7年︵351年︶4月に後趙が滅亡したため、11月に東晋に服属したが、間もなく高齢のため永和8年︵352年︶3月に死去[3]。享年は70を超えていた。
姚氏の集団は子の姚襄が継承した[3]。
死後は姚萇により景元皇帝の諡号が贈られ、廟号を始祖とされた。
人物
編集当時としては異例の長寿であり、また42人を数える息子がいたという[5]。
また後趙が滅亡した後、動乱が激化する華北で姚弋仲は息子たちに「古よりこのかた、いまだ異民族出身者でこの中華世界の天子となった者はいない。私が死んだら、お前たちは江南の東晋王朝に帰属し、臣節を尽くし、決して不義のことを行なってはならない」と述べてわざわざ使者を東晋に派遣して服属しており[5]、姚弋仲は胡族文化の未発達から漢族文化に対するコンプレックスや引け目が存在していたのではないかといわれる[6]。