姚 弋仲(よう よくちゅう、279年? - 352年3月)は、族の部族長。後に後秦を築く基礎を築いた一人である。

家系

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生涯

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西西西[2][2]323[2]3329[3][3][3]

[3][3][4]735141183523[3]70

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人物

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当時としては異例の長寿であり、また42人を数える息子がいたという[5]

また後趙が滅亡した後、動乱が激化する華北で姚弋仲は息子たちに「古よりこのかた、いまだ異民族出身者でこの中華世界の天子となった者はいない。私が死んだら、お前たちは江南の東晋王朝に帰属し、臣節を尽くし、決して不義のことを行なってはならない」と述べてわざわざ使者を東晋に派遣して服属しており[5]、姚弋仲は胡族文化の未発達から漢族文化に対するコンプレックスや引け目が存在していたのではないかといわれる[6]

脚注

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注釈

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引用元

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  1. ^ a b c 三崎『五胡十六国』、P116
  2. ^ a b c 三崎『五胡十六国』、P113
  3. ^ a b c d e f g 三崎『五胡十六国』、P114
  4. ^ 川本『中国の歴史05』、P69
  5. ^ a b 川本『中国の歴史05』、P72
  6. ^ 川本『中国の歴史05』、P73

参考文献

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