宇治拾遺物語
日本の説話集
『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)は、鎌倉時代前期(建暦2年(1212年)~承久3年(1221年))成立と推定される[1]日本の説話物語集である。編著者は未詳。
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概要
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題名は、佚書﹃宇治大納言物語﹄︵宇治大納言源隆国が編纂したとされる説話集、現存しない︶から漏れた話題を拾い集めたもの、という意味である。他にも拾遺︵侍従の別官名︶俊貞のもとに原本があったことからの呼び名とも[1]。
全197話[1]から成り、15巻に収めている。古い形では上下の二巻本であったようだ。
収録されている説話は、序文によれば、日本のみならず、天竺︵インド︶や大唐︵中国︶の三国を舞台とし、﹁あはれ﹂な話、﹁をかし﹂な話、﹁恐ろしき﹂話など多彩な説話を集めたものであると解説されている。ただ、オリジナルの説話は少ない。先行する説話集と酷似する話が、﹃今昔物語集﹄とは約60話、﹃古本説話集﹄とは23話、﹃古事談﹄とは20話ある[1]。他にも﹃十訓抄﹄﹃打聞集﹄などに類似の話が見られる。
貴族から庶民まで、幅広い登場人物が描かれている。また、日常的な話題から滑稽談まで、と内容も幅広い。
﹁芋粥﹂や﹁絵仏師良秀﹂は芥川龍之介の短編小説の題材に取り入れられている。
﹃宇治拾遺物語﹄に収録された説話の内容は、大別すると次の三種に分けられる。
●仏教説話︵破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など︶
●世俗説話︵滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など︶
●民間伝承︵﹁雀報恩の事﹂など︶
民間伝承には、﹁わらしべ長者﹂や﹁雀の恩返し﹂﹁こぶとりじいさん﹂などなじみ深い説話が収められている。仏教に関する説話も含むが、どちらかというと猥雑、ユーモラスな話題︵比叡山の稚児が幼さゆえの場違いな発言で僧侶の失笑を買う、等︶が多く、教訓や啓蒙の要素は薄い。信仰心を促すような価値観に拘束されておらず、自由な視点で説話が作られている。その意味において、中世説話集の中では特異な存在である。後世の﹃醒睡笑﹄などに影響を与えた[1]。
成立
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建暦2年︵1212年︶~承久3年︵1221年︶成立と推定される[1]。序文では、この説話集の成立の経過について、次のようなことが書かれている。
(一)まず、﹁宇治大納言﹂と呼ばれた貴族、隆国によって書かれたという﹃宇治大納言物語﹄が成立した︵現在は散佚︶。
(二)その後、﹃宇治大納言物語﹄が加筆・増補される。
(三)この物語に漏れた話、その後の話などを拾い集めた拾遺集が編まれた。
いずれにしても、成立について諸説あるが、﹃古事談﹄を直接の出典としている話が包含されていることにより、その成立期である建暦期であるとする説や、第159話に﹁後鳥羽院﹂という諡号が出てくるのでこの諡号が出された仁治3年︵1242年︶以後まもなく、とする説もある。
現存の﹃宇治拾遺物語﹄はこうして成立したらしいが、3.がさらに抄出された版であるという見方もなされている。一方で、この序文自体が編者もしくは後世の創作であるとする説もある。
原典
編集脚注
編集関連文献
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●﹁宇治大納言物語﹂、doi:10.20730/100188688“国書データベース 宮内庁書陵部,マイクロ収集,葉・1226”
●﹁宇治大納言物語﹂、河内屋/八兵衛︿﹇大坂﹈﹀、doi:10.20730/100308983“国書データベース 名古屋大学附属図書館コレクション”
●荻原美津子﹁﹃宇治拾遺物語﹄の特色 : 巻一・巻五の説話を中心に﹂﹃国文学科報﹄第8巻、跡見学園女子大学国文学科、1980年3月、21-31頁、CRID 1050001337821017984、ISSN 0388-6204。
関連項目
編集外部リンク
編集- 宇治拾遺物語 (國史大系版テキスト)
- 宇治拾遺物語現代語訳 (日本古典文学摘集)
- (写本)宇治大納言物語(公益財団法人阪本龍門文庫蔵)