寶川石五郎
元力士
経歴
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身長,体重とも不明だが、体格は大きく3尺︵約90cm︶の入り口では常に体を斜めにして入ったと伝わる。出身地は現在の香川県観音寺市(旧・讃岐国豊田郡[2]。
最高位は西前頭筆頭。丸亀藩の抱え。
最初は4代朝日山︵真鸖政吉︶の弟子として大坂相撲で取り、その後東上して1840年10月初土俵︵序二段附出し︶。1848年1月新十両︵東二段目10枚目となり十両相当となった︶。1849年3月場所では7勝1敗1分の好成績を挙げ、優勝相当成績[3]を挙げた。1850年11月場所に新入幕。1852年1月場所では西前頭7枚目で、7勝2敗1休の優勝同点[4]。1853年7月8日︵嘉永6年6月3日︶、アメリカ海軍のペリーが浦賀に来航した際には、幕府が与えた200俵の米俵を何と一気に8俵もの米俵を担いで積み込んだというエピソードも残っている[5][6]。幕内では僅か1場所しか負け越しが無く、しばしば優勝争いに絡み、当時の大関・小柳常吉には3勝を挙げるなど得意にしていた[7]。しかし番付運が非常に悪く、遂に三役以上を経験する事は出来なかった。1858年1月場所後、当時江戸市中に流行したコレラ[8]に罹り、7月18日に死去。43歳︵41歳及び42歳説もあり[1]︶だった。
幕内通算15場所62勝28敗12分2預29休の成績を残した。優勝相当成績1回︵十両時代の1849年3月場所︶。
改名歴は3回ある‥鷲ヶ嶽→本山→寳川 石五郎。
墓は豊島区の南蔵院[7]。また、歌川国貞によって描かれた浮世絵が現存し、江戸東京博物館に収蔵されている[9]。
出典
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(一)^ ab文化15年説もある。西暦換算では1817年1月、1818年説もある。
(二)^ abhttp://sumodb.sumogames.de/Rikishi.aspx?r=3362&l=j
(三)^ この場所では他に谷嵐市藏、増位山岩之助︵後の大関・境川浪右エ門︶も7勝を挙げたがいずれも2敗している。
(四)^ この場所で7勝1敗1休1分の成績を挙げた雲龍久吉︵当時東前頭3枚目。後の第10代横綱︶が優勝相当成績。他に当時西前頭3枚目の六ツヶ峰岩之助︵後の大関・境川浪右エ門。先の増位山岩之助と同一人物︶も7勝2敗の成績を挙げている。
(五)^ 歴史群像~描かれた肖像 - おおいた情報大事典大分朝日放送、2010年6月5日放送。
(六)^ 添田日誌ペリー応対・地誌。﹁物品ノ内米弐百俵船中ヘ被遣︵つかわさる︶。此持込応接場ヨリ波止場迄持運ビヲ相撲力士共御呼寄セ命セラル。﹂とあり、当時の幕内力士が総出で、200俵の米俵を黒船に積む任務が課せられていた事が分かる。尚、寶川は当時西前頭6枚目だった。
(七)^ ab眠るは江戸相撲の権力者たち・南蔵院︵相撲記念館・史跡案内︶
(八)^ 古今大相撲事典︵ISBN 978-4336018786︶より。このコレラでは、稀代の浮世絵師だった歌川広重も命を落としている。
(九)^ 寶川石五郎江戸東京博物館・収蔵品