山本茂一郎
山本 茂一郎 | |
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生年月日 | 1898年10月8日 |
出生地 |
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没年月日 | 1978年5月13日(79歳没) |
出身校 | 陸軍大学校 |
前職 | 日本陸軍軍人(陸軍少将) |
所属政党 | 自由民主党 |
称号 |
正四位 勲二等旭日重光章 タイ王冠勲章コマンダー |
選挙区 | 全国区 |
当選回数 | 2 |
在任期間 | 1965年7月4日 - 1977年7月3日 |
経歴
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和歌山県出身[1][2][4]。農業・製糸業山本亀吉の四男として生まれる[1]。五條中学校卒を経て[1]、1919年︵大正8年︶5月、陸軍士官学校︵31期︶を卒業[1]。同年12月、歩兵少尉に任官され、歩兵第38連隊付となる[1]。1926年︵大正15年︶12月、陸軍大学校︵38期︶を優等で卒業した[1]。
1928年︵昭和3年︶3月、陸軍省整備局付勤務、整備局課員、イギリス駐在などを経て、1933年︵昭和8年︶3月、陸軍兵器本廠付に発令され、ジュネーブ軍縮会議日本全権団随員となる[1]。1934年︵昭和9年︶3月、整備局課員に就任、整備局付︵資源局事務官︶などを歴任し、1935年︵昭和10年︶8月、陸相秘書官となった[1]。1938年︵昭和13年︶7月、軍務局課員︵軍務課︶となり、1939年︵昭和14年︶8月、歩兵大佐に進級し歩兵第228連隊長に就任し[1][4]日中戦争に出征[2]。
1940年︵昭和15年︶10月から北支那方面軍参謀となり太平洋戦争を迎えた[1]。1942年︵昭和17年︶3月、教育総監部第1課長となり、1943年︵昭和18年︶3月、第16軍参謀兼軍政監部総務部長に発令され、同年8月、陸軍少将に進級した[1][2][4]。1944年︵昭和19年︶11月、第16軍参謀長兼ジャワ軍政監となり終戦を迎えた[1][2][4]。1946年︵昭和21年︶4月、戦犯容疑により逮捕され、1949年︵昭和24年︶12月、オランダ軍裁判で無罪判決を受けた[1]。1950年︵昭和25年︶3月に帰国[1]。
1965年︵昭和40年︶7月、自由民主党から第7回参議院議員通常選挙の全国区に立候補し当選した[3][5]。1971年︵昭和46年︶6月、第9回参議院議員通常選挙で再選されたが[3][6]、1977年︵昭和52年︶7月の第11回参議院議員通常選挙には出馬せず引退した。この間、参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員会委員長、第2次田中角栄第1次改造内閣の農林政務次官などを務めた[3]。その他、軍人恩給連盟全国連合会長、自民党和歌山県連顧問、日本インドネシア協会顧問などを歴任した[3]。
1978年︵昭和53年︶5月13日死去、79歳。死没日をもって正五位から正四位に叙される[7]。
栄典
編集親族
編集著書
編集- 『回想録 - 激動の人生八十年』山本光子、1978年。
- 『私のインドネシア - 第十六軍時代の回想』日本インドネシア協会、1979年。
脚注
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(一)^ abcdefghijklmnopq﹃日本陸海軍総合事典 第2版﹄168頁。
(二)^ abcdefgh﹃日本陸軍将官辞典﹄774頁。
(三)^ abcde﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄439頁。
(四)^ abcde﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄429頁。
(五)^ ﹃国政選挙総覧 1947-2016﹄550頁。
(六)^ ﹃国政選挙総覧 1947-2016﹄551頁。
(七)^ ﹃官報﹄第15401号13-14頁 昭和53年5月19日号
(八)^ ﹃官報﹄第3990号、昭和15年4月27日。
(九)^ ﹃官報﹄第13463号15-16頁 昭和46年11月5日号
(十)^ ﹃官報﹄第13463号12頁 昭和46年11月5日号
参考文献
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●秦郁彦編﹃日本陸海軍総合事典 第2版﹄東京大学出版会、2005年。
●福川秀樹﹃日本陸軍将官辞典﹄芙蓉書房出版、2001年。
●外山操編﹃陸海軍将官人事総覧 陸軍篇﹄芙蓉書房出版、1981年。
●衆議院・参議院﹃議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。
●﹃国政選挙総覧 1947-2016﹄日外アソシエーツ、2017年。
議会 | ||
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先代 伊藤五郎 |
参議院沖縄及び北方問題に関する特別委員長 | 次代 塚田十一郎 |