岩上妙子
経歴
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茨城県多賀郡平潟町︵今の北茨城市︶生まれ[2]。福島県立磐城高等女学校︵のち福島県立磐城女子高等学校、現在の福島県立磐城桜が丘高等学校︶を経て[2]、1939年帝国女子医学専門学校︵現・東邦大学︶卒[3]。東京警察病院に勤務し[1][3]、茨城県瓜連町︵現・那珂市︶で開業する。瓜連町教育委員[1]、水戸家庭裁判所家事調停委員[1][3]などを経て、1974年の第10回参議院議員通常選挙において茨城地方区から茨城県興農政治連盟で立候補して当選する。3年後、難病の尋常性天疱瘡に罹り、参議院議員を辞職する。その後継に夫の岩上二郎が補欠選挙に立候補して当選、3期務めた。1989年夫・二郎が死去。これに伴う補選の出馬に意欲を示し、記者会見まで開いた[4]。一方で自民党茨城県連は茨城県議の野村五男を擁立し、保守は分裂状態となった[5]。自民党は候補者一本化に向けて、党中央が動き出し、当時の自民党幹事長の小沢一郎の説得により、岩上は立候補を断念した[6]。自民党は候補者一本化に成功し、選挙は野村が当選した。
1998年春の叙勲で勲四等宝冠章受章[7]。
2000年4月30日死去、78歳。死没日をもって従五位に叙される[8]。