岸田吟香

1833-1905, 新聞記者、実業家、教育家

  183361544284481833526- 38190567
岸田吟香
岸田吟香

人物・生涯

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年譜

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新聞と吟香

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横浜新報もしほ草

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吟香は1868年6月1日(閏4月3日)にヴァン・リードと「横浜新報もしほ草」(以下「もしほ草」)を創刊する。ただし本紙には吟香の名前は掲載されず、リードは吟香が筆禍を免れる為の隠れ蓑というべき存在だった(当時リードが住んでいた横浜居留地は治外法権に設定されていたため、幕府も手出しできなかった)。実際、記事のほとんどは吟香の手によるものである。

「もしほ草」は木版刷り、半紙四つ折、四六判、一行20字詰め、一面10行、唐紙片面刷りの袋表紙、萌黄色の絹糸二箇所綴じであった。記事は仮名混じりの平易な文で書かれ、また広告記事が一切無かった。

吟香は創刊号で「…余が此度の新聞紙は日本全国内の時々のとりさたは勿論、アメリカ、フランス、イギリス、支那の上海、香港より来る新報は即日に翻訳して出すべし。且月の内に十度の余も出板すべし。それゆゑ諸色の相場をはじめ、世間の奇事珍談、ふるくさき事をかきのせることなし。また確実なる説を探りもとめて、決して浮説をのせず。…」と編輯方針を記している。吟香はこの方針に則って自由に記事を執筆した(ヘボンが手掛けた日本初の義足手術を報じたり、レオン・ド・ロニーがパリで刊行した邦字新聞『よのうはさ』を紹介したりしている)が、同時に「たゞ耳から耳へ聞き伝へたまゝを書き、或は毎度西国方が勝った事ばかりでは、江戸の人気は投ぜぬ」と感じており、佐幕派が多かった江戸の庶民にも配慮して「官軍が負けた」などという記事も載せていた。

「もしほ草」は柳河春三が創刊した「中外新聞」と発行数を争う人気新聞となったが、後続に次第に振るわなくなり、42号で廃刊となった(明治3年3月13日まで)。吟香自身は1870年頃に「もしほ草」を離れたらしい。

東京日日新聞

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15,000

1877退

実業家としての顔

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清と吟香

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その他

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18725[3]91838 [4]

脚注

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  1. ^ 岸田吟香(きしだ・ぎんこう 1833-1905)関西大学 東西学術研究所 2020年6月17日閲覧
  2. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)9頁
  3. ^ 大森洋平『考証要集』文春文庫 p.199、江後迪子『長崎奉行のお献立 南蛮食べもの百科』(吉川弘文館、2011年)、p.171
  4. ^ 江後(2011)、p.171

参考図書

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 193671031936418

  1982530

  19967ISBN 4-7629-5019-X

  2002ISBN 4-7727-0367-5

関連項目

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外部リンク

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