廉想渉
作家
廉 想渉︵れん そうしょう、ヨム・サンソプ、1897年8月30日 - 1963年3月14日︶は、朝鮮の小説家、言論人。本貫は坡州廉氏[3]。本名は尚燮、号は横歩。8人兄弟の3番目に生まれた。朝鮮文学に初めて自然主義という語を植え付け、朝鮮の自然主義文学の祖となった。
廉想渉 | |
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誕生 |
1897年8月30日 李氏朝鮮漢城 |
死没 |
1963年3月14日(65歳没) 韓国ソウル特別市 |
職業 | 小説家 |
言語 | 朝鮮語 |
活動期間 | 1921年 - 1963年 |
ジャンル | 小説 |
デビュー作 | 「표본실의 청개구리 (標本室の青蛙)」[1] |
廉想渉 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 염상섭 |
漢字: | 廉想涉[2] |
発音: | ヨム・サンソプ |
日本語読み: | れん・そうしょう |
年譜
編集
●1897年8月30日、漢城︵現‥ソウル︶の鍾路区積善洞に生まれる。
●1907年9月、官立師範附属普通学校に入る。
●1909年、普成小学校に移る。
●1911年、普成中学校入学
●1912年9月、渡日。
●1913年4月、東京の麻布中学校2年に編入学。
●1914年1月、麻布中学校を中退して聖学院中学校3年に編入。
●1915年9月、聖学院中学校を中退。
●1915年9月、京都府立第二中学校︵現‥京都府立鳥羽高等学校︶3年に編入学。
●1918年3月、京都府立第二中学校卒業。
●1918年4月、慶應義塾大学部文科予科に入学。
●1918年10月、病気により慶應義塾中退。
●1919年3月19日、大阪天王寺公園で独立運動の檄文を撒き、出版法違反で検挙される。一審で10ヶ月の禁固刑の判決が下るが、二審で無罪となり6月10日に釈放。
●1920年2月、創刊準備中の東亜日報社の政治部記者として、東京で取材活動。
●1920年3月、朝鮮に帰国。
●1920年9月、五山学校の教員となり、日本語と作文の講義をおこなう。
●1921年7月、五山学校を辞職し京城︵現‥ソウル︶に帰る。
●1923年9月、週刊誌﹃東明﹄の編集長になる。
●1925年、﹃時代日報﹄の社会部長を務める。
●1929年5月、金英玉と結婚。
●1929年、﹃朝鮮日報﹄の学芸部長を務める。
●1931年、長男、在瑢が生まれる。
●1933年、長女、喜瑢が生まれる。
●1935年、﹃毎日申報﹄に移る。
●1936年、満州の長春で﹃満鮮日報﹄の主筆兼編集局長になる。
●1938年、次女、喜英が生まれる。
●1938年、満州の安東に一家で移り、大東港建設局の広報担当を務める。
●1942年、次男、在玹が生まれる。
●1946年9月、ソウルに戻る。﹃京郷新聞﹄の創刊で編集局長に就任する。
●1950年、海軍本部政訓監室で勤務。1953年に除隊。
●1954年、ソラボル芸術大学の初代学長を務める。
●1963年3月14日、ソウル市城北区城北洞145-52号の自宅にて盲腸ガンで他界。
作品一覧
編集- 標本室の青ガエル(1921年)
- 二心(1921年)
- 暗野(1922年)
- 愛と罪(1922年)
- 死と影(1922年)
- ヒマワリ(1923年、後に「新婚期」に改題)
- 万歳前(1923年、後に「墓地」に改題)、白川豊訳『万歳前』勉誠出版(2003年12月)
- 飯(1924年)
- 小さなお仕事(1924年)
- 忘れえぬ者ども(1924年)
- 金半指(1924年)
- 電話(1925年)
- 輪転機(1925年)
- 孤独(1925年)
- 狂奔(1930年)
- 三代(1931年)
- 無花果(1932年)
- 牡丹の花咲く頃(1934年)
- 不連続線(1935年)
- 解放の子ども(1946年)
- 曉風(1947年)
- 두 破産(1947年)
- 絆(1947年)
- 令監家僧と乭釗(1947年)
- 臨終(1948年)
- 曉風(1948年)
- 一代の遺業(1948年)
- 採石場の少年(1949年)
- 暖流(1950年)
- ハコ部屋求む(1951年)
- 비스켙과 手榴彈(1951年)
- 驟雨(1952年)
- 紅焰(1953年)
- 終の棲家の風景(1954年)
- 追悼(1954年)
- 脅威(1954年)
- 未亡人(1954年)
- 夫婦(1955年)
- 地平線(1955年)
- 후덧침(1956年)
- 吠えざる犬(1956年)
- 母(1956年)
- 父性愛(1956年)
- 跡(1956年)
- 若い世代(1956年)
- ダンス(1957年)
- 死線(1957年)
- 絶穀(1958年)
脚注
編集参考文献
編集- 金允植『廉想渉研究』ソウル大学校出版部、1987年