後背湿地
形成過程
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河川によって運ばれた砕屑物︵礫、砂、泥︶は、河川流路からの越流に伴って粗粒なものから堆積し、流路沿いに微高地︵自然堤防︶が生じる[3]。氾濫水が流路から遠方へと流れるにつれて、氾濫水には粗粒な砕屑物が少なくなり、細粒な砕屑物︵泥など︶のみを含むようになる[3]。流路沿いには微高地が分布するため氾濫水は排水しづらく、長期間にわたり湛水することにより泥の堆積が生じる[4]。これにより、自然堤防の背後には細粒物質を主体とした後背低地︵広義の後背湿地︶が生じる[2]。後背低地への泥の堆積が進行すると、排水不良の土地となり、次第に湿地化する︵狭義の後背湿地︶[2]。
ここでいう粗粒物質と細粒物質の大きさは、その低地の小地形︵扇状地、氾濫原、三角州︶によって異なる[5]。すなわち、扇状地の後背低地は礫主体の河川の氾濫によって形成するので、大きな礫と比較して細粒な砂や小さな礫が堆積しうる[5]。一方で、三角州の後背低地は泥主体の河川の氾濫によって形成するので、泥のなかでも細粒な粘土が堆積した土地となる[5]。
土地利用
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日本のように水稲栽培の卓越する地域では、開墾され伝統的に水田として利用されてきた。特に治水技術や土木技術の発展した江戸時代以降、湿地の排水や湖沼の干拓による新田開発が盛んに行われた。信濃川および阿賀野川下流域の越後平野や、北上川下流域の仙台平野など、現在﹁米どころ﹂または﹁穀倉地﹂と呼ばれている稲作地帯は、このようにして開かれてきた。これに対して、気温が低く稲作に不適な北海道東部および北部では水田として利用されることはなく、また低温であることと土砂の流入量が少ないことから多くが泥炭の堆積する湿原のまま残されてきたが、第二次世界大戦後に大規模な排水工事が行われて農業的な土地利用が行われるようになった。
一方、東京や大阪、名古屋など、日本の都市の多くが沖積平野に立地することから、これらの都市の膨張とともに隣接する後背湿地の市街地化が急速に進行している。比較的に地価が安いことから、工場や新興住宅団地が造成されることで市街地化することが多い。
自然災害リスク
編集脚注
編集出典
編集参考文献
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●鈴木隆介﹃建設技術者のための地形図読図入門 第2巻 低地﹄古今書院、1998年5月1日。ISBN 978-4-7722-5007-8。
●松岡昌志、若松加寿江、藤本一雄、翠川三郎﹁日本全国地形・地盤分類メッシュマップを利用 した地盤の平均S波速度分布の推定﹂﹃土木学会論文集﹄第794巻、土木学会、2005年、doi:10.2208/jscej.2005.794_239。