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凡例

戸田 忠昌
時代 江戸時代前期
生誕 寛永9年(1632年
死没 元禄12年9月10日1699年10月2日
改名 忠治、忠昌
別名 主膳(通称
墓所 牛込松源寺
官位 従五位下伊賀守従四位下侍従越前守
幕府 江戸幕府 奏者番寺社奉行京都所司代老中
主君 徳川家綱綱吉
三河田原藩主、肥後富岡藩主、武蔵岩槻藩主、下総佐倉藩
氏族 戸田氏
父母 戸田忠継伴忠好
戸田忠能
兄弟 忠昌忠時久世広之正室、水野定勝
秋元富朝長女
秋元喬知[1]忠真忠章忠恒松平忠雄正室
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生涯

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『名将言行録』にある逸話

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名将言行録』には次のような記録がある。

若年期の逸話

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忠昌は若年の折は豪放にして、節度正しくないことも多かった。寵愛の妾より事起こり、老臣の彦坂与次右衛門の諫言により、妾を追放しないことにはこの場を退出しないと2日間、昼夜座り続けたまま眠らなかった。忠昌は大いに感悟し、妾を追放した。以後、万事行い正しく、ついに幕府老中として重きをなす名臣となったという。

ある年、江戸に大火があり、紀州藩徳川頼宣が江戸城の将軍を気遣い登城しようとした。当時17歳であった忠昌は、江戸城の勤番として城内に詰めていたが、門を通さず、非常の固めであればお通しし難く、老中にかけあっていただきたいと応じた。頼宣は早速、酒井忠清と対面したが、城内に別条なければ御登城に及ばずと伝え、頼宣はその場を退いたという。忠清はこの折の忠昌の対応を感じ入ったといい、その模様が次のように記録されている。「若年にて警固の心得丈夫なるを称して、背中をほとほと打ければ、著込みを著用して居たり。忠清手を拍て、益々感じ、格別の器量驚入りぬとて帰りけり」とある。忠清はこのことを同僚に述べ、賛辞を止めなかった。それ以前、忠清は忠昌と特段親しいわけではなかったが、この形容に感じて、常に賞賛した。天草藩主に欠員が出た際は、幕閣の間にて天草に置くべき人は忠昌を越える者なしと決せられ、忠昌は天草藩主に転ずることになったという。

酒井忠真家臣の相続問題への助言

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婿1000500



500


系譜

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父母

正室

子女

養女

脚注

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(一)^  52009 18