新川県
新川県(にいかわけん)は、1871年(明治4年)に越中国(当初は一部、のちに全域)を管轄するために設置された県。現在の富山県にあたる。
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概要
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1871年︵明治4年︶、第1次府県統合により、富山県︵第1次︶全域︵かつての富山藩の領域=婦負郡および新川郡の一部︶に、金沢県︵かつての加賀藩の領域︶の礪波郡と新川郡を併せて成立した。県庁は当初富山県時代の富山の富山城跡に設置しようとしたが、富山城跡が陸軍省の管轄になっていたため大蔵省管轄の県庁を設置することが出来ず、加えて城外に適当な建物が無かったことや新たに建設をする余裕も無かったことから、魚津の旧加賀藩郡代役所に移され[1]、県名も郡名を取って新川県に改称された。
越中国のうち射水郡のみは七尾県に編入されていたが、1872年︵明治5年︶に新川県に編入された。これにより、旧・越中国が初めて1つの県となり、現在の富山県の領域と同じになった。翌1873年︵明治6年︶9月6日、県庁は富山の富山城跡に戻された。これは魚津の県庁が県の北東にあり出張所︵富山・高岡・杉木新︶設置のための費用がかさむことや、魚津庁舎自体が狭いという問題、富山に設置した方が経済面・財政面などで様々な利便性があるなどの理由があったためである[1]。
1876年︵明治9年︶、第2次府県統合により新川県全域が石川県に編入され、廃止された︵同9月には福井県嶺北も編入される︶。その後、旧越中国内で分県運動が展開され、1883年、越中国4郡が石川県から分離され、富山県となった。
沿革
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後年作成された1872年(明治4年)旧12月の行政区画地図における新川県
●1871年︵明治4年︶11月20日 - 第1次府県統合により富山県︵第1次︶が廃止され、金沢県の一部を編入して新川県が発足。県庁を暫定的に富山に設置[1]。
●1872年︵明治5年︶
●1月22日 - 新川郡魚津︵現在の魚津市︶に県庁︵仮庁︶を設置。3月15日に本庁と定める[1]。
●9月25日 - 七尾県のうち越中国を移管。
●1873年︵明治6年︶
●3月10日 - 県庁から大蔵省宛に富山への県庁復帰を願う上申書を提出[1]。
●8月28日 - 太政官より新川県に県庁移転の達しが届く[1]。
●9月6日 - 県庁を新川郡富山︵現在の富山市︶の富山城に移転[1]。
●1876年︵明治9年︶4月18日 - 第2次府県統合により石川県に合併。同日新川県廃止。
管轄地域
編集歴代知事
編集脚注
編集参考文献
編集- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 16 富山県』(1979年10月、角川書店)
外部リンク
編集先代 富山県(第1次) 七尾県の一部(射水郡) |
行政区の変遷 1871年 - 1876年 |
次代 石川県 |