東観漢記
書名の由来
編集後漢時代の修史事業および東観について
編集後漢時代の東観については小林春樹による詳しい研究[8] があるので、それに依拠して説明する。
東観の所在と後漢初期の史料編纂
編集図讖を利用して支配強化に努めた光武帝であったが、一方で図讖には過激な革命思想が含まれていたために、その内容は後漢の反対勢力にも利用可能なものであった。そのため後漢王朝は図讖をよりどころとする諸勢力[注 4] に大規模な弾圧を加えてもいる[9]。
後漢時代の東観の建物のおおよそについては、﹃芸文類聚﹄巻63居処3観条に採録されている﹁東観賦﹂および﹁東観銘﹂によって知ることができる[10]。所在位置は後漢洛陽城の南宮の東側に存在し、南宮の西側には蘭台が存在していた[11]。本来後漢初期には蘭台が史料編纂の中心となっていたが、それは後漢政府が当初讖緯を重視していたためであり、蘭台は以前から図讖[注5]の収集をその職務としていた[15]。当時図讖は後漢政府の正統性強化にも貢献していた反面、反政府勢力の根拠ともなっていた。蘭台に修史事業の拠点を設けるということで、初期の後漢政府の修史事業には、図讖に基づいた歴史書編纂によって反後漢勢力の封じ込めをはかる王朝側の積極的な意図が見えるのである[15]。
後漢後期の史料編纂と東観人士の合理主義的歴史観
編集
章帝の時期から修史の中心は東観に移っていくのであるが、章帝期はいまだ蘭台の影響下にあり、独自性を発揮していなかった。しかし和帝の時期には班昭による﹃漢書﹄続修などの独自な修史事業が東観でおこなわれ始めた。安帝の時期には正式に史官が置かれ[注6]、複数人による歴史書編纂が定着することになった。この安帝以後の東観人士、たとえば張衡や崔寔・朱穆・馬融・蔡邕らは図讖に批判的であって、彼らは図讖に親和的と考えられている今文学派と対立する古文学派であり、経文解釈においてより合理主義的であった[17]。これは彼らの歴史観にも影響しており、彼らは図讖に否定的で、したがって蘭台の歴史叙述にも批判的であり、たとえば張衡は班固﹃漢書﹄王莽伝が詳細に災異や瑞祥を記している[注7]のは不適当であるといい、さらに班固の﹁世祖本紀﹂[注8] が更始の年号を用いていないのは、光武帝が当初更始帝に属していた事実を歪曲するものであるとした[19]。このことは漢王朝を神聖視しないという意味で、その支配を相対化して考えることが可能となり、ひいては王朝の滅亡もありうべきことと考える柔軟さを生んだ[20]。さらには断代史の考えに結びつき[20]、また史実に比較的忠実な歴史叙述も可能とした[18]。そのため蘭台によって編纂された光武帝紀と東観による明帝紀以後では、歴史叙述の性格が大きく異なっているのである。
﹃東観漢記﹄を扱う際は、以上のような経緯を把握しておくと、光武帝紀と明帝紀以後の記述姿勢の違いに意識的になることができ、ひいては﹃東観漢記﹄を祖本とする范曄﹃後漢書﹄を読む際にも留意することが可能となるのである[21]。
代表的な版本
編集『東観漢記』はいったん完全に失われ、現行のテキストはすべて他の書籍の引用を集めた輯佚書である。
ここでは現存する『東観漢記』の代表的な版本について紹介する。
姚本(柏筠書屋後漢書補逸本)
編集
正式には﹁柏筠書屋後漢書補逸本﹂という。8巻。清代に姚之駰が編輯し、彼が同じく復原した七家後漢書とともに﹃後漢書補逸﹄として柏筠書屋より刊行された。﹁帝王﹂・﹁后妃﹂・﹁諸王﹂・﹁一般人物﹂という編立てがされているが、その配列は標題に従って随意的になされたもので、劉知幾﹃史通﹄によって知られる本来の編立てを無視している。その内容も﹃後漢書﹄李賢注や﹃続漢書﹄劉昭注・﹃北堂書鈔﹄・﹃芸文類聚﹄・﹃初学記﹄の5種のみからの輯逸にとどまり、不完全である。﹃二十四史訂補﹄に﹃後漢書補逸﹄が採録されており、姚本の内容を確認することができる。﹃二十四史訂補﹄は日本国内の大学図書館に収蔵されている。
聚珍本(武英殿聚珍本)
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正式には﹁武英殿聚珍本﹂という。24巻。﹃四庫全書﹄の編纂に際して、姚本に﹃太平御覧﹄・﹃永楽大典﹄などから佚文を加えたもの。これにより内容は姚本の1.6倍となり、編立てもより原形に近いものに直された。内訳は帝紀3巻・年表1巻・志1巻・列伝17巻・載記1巻・逸文1巻。台湾商務印書館などから出版されており、日本国内の大学図書館に収蔵されている。
四部備要本
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﹁四部備要﹂に採録されたもの。24巻。基本的には聚珍本と変わらない。日本では、影印されたものなどが大学図書館に収蔵されている。
校注本(東観漢記校注)
編集評価
編集中国史学における伝統的な評価
編集南朝宋代に范曄が『後漢書』をなすと、これが歓迎され、『東観漢記』は徐々に廃れた。特に唐代に章懐太子李賢が注を施したことで、范曄『後漢書』の優位は決定的となる。
既述のように、三国時代には司馬遷﹃史記﹄・班固﹃漢書﹄とともに、﹁三史﹂として重んぜられた﹃東観漢記﹄であったが、南朝宋代に范曄が﹃後漢書﹄を上梓すると、文体も非常に整っていた[注9]ので、これが重んじられるようになった。早くも南朝梁代に劉昭注が現れ、唐代李賢注によってこの傾向は決定的となった。勅撰による﹃群書治要﹄も後漢時代の歴史記事については范曄の﹃後漢書﹄から引用する[22]。対して、﹃東観漢記﹄には六朝時代の注釈は一つもない[23]。したがって史実考証ももっぱら范曄の﹃後漢書﹄に基づいて行われるようになり、﹃東観漢記﹄はたちまち廃れた。たとえば、劉知幾は唐代において﹁世間で後漢の史書と認められているのは范曄﹃後漢書﹄と袁宏﹃後漢紀﹄のみである﹂[24] と述べている。﹃史通﹄﹁覈才﹂編においても﹃東観漢記﹄が同時代史を扱った歴史書であるために制約が多く﹃漢書﹄に劣ることを傅玄の文章を引用しつつ論じ、同書﹁忤時﹂編でも﹃東観漢記﹄がさまざまな著者の記述の寄せ集めに過ぎず、一貫性のないことを批判している[25]。
現代歴史学における史料的価値
編集
池田昌広は呉樹平の研究を紹介している[26]。それによれば、基本的に﹃東観漢記﹄の情報量は范曄﹃後漢書﹄や七家後漢書に比べ多く、たとえば光武帝紀の文字数で見ると、﹃東観漢記﹄は﹃後漢書﹄の3倍ほどであると推定される。范曄﹃後漢書﹄は先行する諸家の﹃後漢書﹄を参照してなったものであるが、わけても﹃東観漢記﹄に依拠することすこぶる多い。したがって、現在比較的完全な形で提供される范曄﹃後漢書﹄を利用する際は﹃東観漢記﹄の本文が参照できる場合は当然それを確認するのがよい。
一方で、斎藤実郎が﹃東観漢記﹄・七家後漢書・范曄﹃後漢書﹄を比較検討した研究がある[27]。それによれば、﹃東観漢記﹄は実録のような第一次的な史記録かそれに近いものと従来考えられて、その他の後漢時代を扱った歴史書より高い史料的価値を与えられてきたのであるが、実際は必ずしもそうとはいえず、基本的にその他の﹃後漢書﹄や﹃後漢紀﹄などと同等に扱うべきではないかとの見解が示されている。
経緯
編集編纂過程
編集編纂過程については、中華書局『東観漢記校注』の「序」に詳しい。今それに従えば、およそ4回の編纂過程を経て『東観漢記』は完成した。
最初の編纂事業:明帝期
編集![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/08/Ban_Gu.jpg/200px-Ban_Gu.jpg)
最初期の編纂は後漢明帝期に行われた。後漢の当初[注10] は国力に余裕がなく、荒廃した経済の回復と政権の確立が急務であり、文化においては讖緯の思想が優勢で、歴史叙述は顧みられることはなかった[29]。しかし明帝が即位して後、政治経済状況は安定し、文化事業にも注力されるようになる。班固が﹃漢書﹄を私撰し、それを明帝が読んで宮中にてその編纂を続けるよう命じ、また陳宗・尹敏・孟異の3人とともに共同で光武帝の本紀を編纂させた。さらに3人のほか、杜撫・馬厳・劉復・賈逵4人とともに、光武帝の功臣、および平林軍・新市軍、加えて公孫述の事績について列伝を班固に編纂させ、班固は列伝・載記28編を奏上した[注11]。
第2次編纂事業:安帝期
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第2期の編纂は安帝期のものである。安帝の永寧年間に劉珍・李尤・劉騊駼・劉毅らが太后の鄧綏の詔を受けて﹁中興以下名臣列士傳﹂を著した。劉知幾によれば、この書物はただ単に名臣列士の伝記を記したものではなく、建武年間から永初年間に至るまでの本紀や表を備えたものであり、初めて国史としての体裁を整えたものであった[注12]。劉珍らが没して後、伏無忌・黄景らが事業を引き継ぎ、諸王・王子・功臣・恩沢侯の表および南単于と西羌の伝、﹁地理志﹂を備えたものとなった。
第3次編纂事業:桓帝期
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編纂の第3期は桓帝の時代である。元嘉元年︵151年︶桓帝は辺韶・崔寔・朱穆・曹寿らに命じて﹁孝穆皇伝﹂・﹁孝崇皇伝﹂[注13] および﹁順烈皇后伝﹂を編纂させ、外戚列伝や儒林列伝を増補させた。さらに、崔寔・曹寿に延篤と共同で百官表を作らせ、順帝朝の功臣である孫程・郭鎮の列伝を加えさせ、鄭衆・蔡倫らの列伝を作らせた。このときなったのはおおよそ114編であった[24]。
第4次編纂事業:後漢末
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最後の編纂は霊帝・献帝の在位期であった。劉知幾によれば、熹平年間に蔡邕・馬日磾・楊彪・盧植らが東観において本紀・列伝を増補した。また蔡邕は志を著した。劉知幾によれば、董卓の暴政による混乱で﹃東観漢記﹄は多く散佚したらしい[24] が、許遷都後の建安元年︵196年︶以後、楊彪が修史事業を引き継ぎ、最終的に整備した[32]。このとき143巻。
散佚過程
編集内容
編集『東観漢記校注』は全22巻からなり、その内容は以下の表の通りである。
脚注
編集注釈
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(一)^ 詳しくは#評価の#現代歴史学における史料的価値を参照。
(二)^ ﹁三史﹂という語が三国時代に何を指したかについては古来異論のあるところで、そのうち﹁二史﹂については﹃史記﹄・﹃漢書﹄であることは明らかなのであるが、3番目を﹃戦国策﹄とするか﹃東観漢記﹄とするかで分かれる。このうち﹃戦国策﹄をとるので著名なのは王鳴盛﹃十七史商榷﹄三国志四﹁三史﹂である。﹃東観漢記﹄説をとるのは銭大昕﹃十駕斎養新録﹄六﹁三史﹂であり、以後﹃庫目提要﹄や姚振宗もこれを踏襲している。[1]
(三)^ この交代の時期について、池田昌広は﹃唐六典﹄に基づいて玄宗朝とする[5]。
(四)^ たとえば王郎や楚王英。
(五)^ 図讖︵讖緯︶とは予言書のこと。前漢末の哀帝・平帝の頃になると従来の儒教経典のほかに緯書が出現した。﹁緯﹂はよこの意であり、つまり﹁経︵たて︶﹂を補うものとしての意味である。この緯書は図讖と非常に関連した内容となっており、合わせて讖緯説というのである[12][13]。図讖は﹁漢王朝は火徳の聖王である堯の後裔がたてた王朝である﹂﹁漢王朝は天や聖人孔子などによって絶対的に支持されている﹂といった立場で書かれた予言書であった。光武帝による漢再興は、﹁図讖革命﹂ともいわれるように、この予言書を活用したものであった[13][14]。
(六)^ ただし、戸川芳郎によれば、﹃隋書﹄経籍志総序において﹁史官﹂の変遷が論じられているが、その見方に従えば、三国魏における著作郎の成立を﹁史官﹂の制度的な出現と見ている。したがって後漢の東観の修史事業はあくまで﹁史官﹂そのものとは考えられていないという[16]。
(七)^ ﹃漢書﹄王莽伝が災異や瑞祥を詳しく記すのは、王莽の符命政治の欺瞞性と光武帝の正統性を明らかにする目的からである[18]。
(八)^ 明帝期に班固が共同で編纂した﹃東観漢記﹄の原形の一つ。詳しくは#編纂過程を参照。
(九)^ 范曄は﹃後漢書﹄の文章に自信を持っていたとされ、事実﹃文選﹄の﹁史論﹂編には、採録された文章のうち過半数にあたる4種が採録されており、六朝時代に高い評価を得ていたことが知られる[22]。
(十)^ この時代の世相については新末後漢初および後漢#歴史、光武帝#統一後などを参照。
(11)^ 校注序は触れないが、﹃中国史学名著評介﹄によれば、章帝の時期も引き続き修史事業は続けられ、明帝の本紀が書かれたらしい[30]。
(12)^ 劉知幾﹃史通﹄巻十二﹁古今正史 第二﹂による。このとき劉珍らが撰したのは、本紀・表に加え、名臣・節士・儒林・外戚についての列伝を備えたものであったという。
また、范曄﹃後漢書﹄巻八十上﹁文苑列伝 第七十上﹂の李尤伝には、李尤が劉珍らとともに詔を受けて﹁漢記﹂を編纂したとある[31]。
2010年3月10日現在、中国語版にはこのときの編纂過程で東観に編纂所が定められたと﹃史通﹄古今正史編に書かれているとあるが、当該箇所にはそのような記述はない。中国語版の問題箇所は﹁據︽史通・古今正史篇︾,還尚有︽紀︾、︽表︾、︽外戚︾等傳,時間起於建武,終於永初,書始名︽漢記︾,不久,工作地點遷至南宮東観。﹂の一文であるが、前述のように、﹃東観漢記校注﹄序によれば南宮東観に史料編纂の中心が移ったのは章帝から和帝にかけての時期[6] であり、この第2期編纂過程より前である。
(13)^ 孝穆皇は桓帝の祖父の河間孝王劉開であり、孝崇皇はすなわち桓帝の父の蠡吾侯劉翼である。詳しくは#後漢系図を参照。
出典
編集
(一)^ 戸川﹇1992﹈、注(3)。
(二)^ 校注序、p.7。
(三)^ 稲葉﹇1999﹈、p.183。
(四)^ 吉川﹇2001﹈、p.376。
(五)^ 池田﹇2008﹈、p.7。
(六)^ ab校注序、pp.4-5。
(七)^ 校注序、pp.5-6。
(八)^ 小林﹇1984﹈。
(九)^ 小林﹇1984﹈、p.62。
(十)^ 小林﹇1984﹈、p.57および注(2)。
(11)^ 小林﹇1984﹈、pp.57-58。
(12)^ 溝口ほか﹇2001﹈、p.328。
(13)^ ab西嶋﹇1997﹈、p.475。
(14)^ 溝口ほか﹇2001﹈、p.329。
(15)^ ab小林﹇1984﹈、p.63。
(16)^ 戸川﹇1992﹈、p.10。
(17)^ 小林﹇1984﹈、p.61。
(18)^ ab小林﹇1984﹈、p.66。
(19)^ 小林﹇1984﹈、pp.65-66。
(20)^ ab小林﹇1984﹈、pp.66-67。
(21)^ 小林﹇1984﹈、p.70。
(22)^ ab渡邉﹇2001﹈、pp.13-14。
(23)^ 池田﹇2008﹈、p.6。
(24)^ abc﹃史通﹄﹁古今正史﹂編。
(25)^ 渡邉﹇2001﹈、pp.8-9。
(26)^ 池田﹇2008﹈、p.10。
(27)^ 斎藤実郎﹁東観漢記・七家後漢書後漢書の史料問題﹂︵﹃中国正史の基礎的研究﹄所収︶、pp.57-85。
(28)^ 小林﹇1984﹈、pp.62-63。
(29)^ 校注序、p.1。
(30)^ ﹃中国史学名著評介﹄1巻、p.145。
(31)^ 中華書局校点本﹃後漢書﹄、p.2616。
(32)^ 校注序、p.6。
(33)^ ab山根﹇1991﹈、p.200。
(34)^ 校注序、pp.6-7。
参考文献
編集
●劉珍ほか 編﹃東観漢記校注﹄呉樹平、中華書局、2008年。ISBN 978-7-101-06294-6。
●呉樹平 編﹃秦漢文献研究﹄斉魯書社、1988年。
●郭孔延ほか 編﹃史通評釈・史通訓詁・史通訓詁補﹄上海古籍出版社、2006年。ISBN 7-5325-4404-4。
●通釈については適宜右を参照‥劉知幾 著、西脇常記 訳﹃史通外篇﹄東海大学出版会、2006年。ISBN 978-4486011910。
●范曄 編﹃後漢書﹄李賢、中華書局、1965年。ISBN 7-101-00306-0。
●倉修良 編﹃中国史学名著評介﹄山東教育出版、1990年。ISBN 7-5328-0851-3。
●﹃東観漢記﹄についての章は呉樹平の執筆。
●稲葉一郎﹃中国の歴史思想﹄創文社、1999年。ISBN 4-423-19410-4。
●山根幸夫 編﹃中国史研究入門︿増補改訂版﹀﹄山川出版社、1991年。ISBN 4-634-65480-6。
●范曄 著、吉川忠夫 訳﹃後漢書﹄1巻、岩波書店、2001年。ISBN 4-00-008861-0。
●小林春樹﹁後漢時代の東観について—﹃後漢書﹄研究序説—﹂﹃史観﹄第111号、早稲田大学史学会、1984年9月、pp. 57-71。
●溝口雄三ほか 編﹃中国思想文化辞典﹄東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130100878。
●西嶋定生﹃秦漢帝国﹄講談社<講談社学術文庫>、1997年。ISBN 978-4061592735。
●本書の内容は講談社﹁中国の歴史﹂シリーズ︵1974~75︶の一冊として1973年内に執筆され、1974年に公刊されたもの。
●戸川芳郎﹁四部分類と史籍﹂﹃東方学﹄第84号、東方学会、1992年3月、pp. 1-21。
●早稲田大学文学部東洋史研究室 編﹃中国正史の基礎的研究﹄早稲田大学出版部、1984年。 NCID BN00327174。
●池田昌広﹁范曄﹃後漢書﹄の伝来と﹃日本書紀﹄﹂﹃日本漢文学研究﹄第3号、二松學舎大学、2008年3月、pp. 1-25。
●范曄 著、渡邉義浩 訳﹃全訳後漢書﹄1巻、汲古書院、2001年。ISBN 978-4762927041。
後漢系図
編集外部リンク
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