松平基知
松平基知 | |
---|---|
松平基知像(孝顕寺蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 延宝7年7月28日(1679年9月3日) |
死没 | 享保14年8月14日(1729年9月6日) |
改名 | 源二郎(幼名)、長矩(初名)、直矩 |
別名 | 通称:又太郎 |
戒名 | 仰高院殿実性英堅大居士 |
墓所 | 福島県白河市円明寺の白河藩大名家墓所 |
官位 | 従五位下、従四位下和泉守、大和守、侍従 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 陸奥白河藩主 |
氏族 | 結城松平家 |
父母 | 父:松平直矩、母:公卿の東園基賢娘・丁(三保の方)[1] |
兄弟 | 基知、宣富、知清、本多忠貞、堀田正親正室ら |
妻 |
正室:有馬頼元の娘 継室:東園基雅の娘 |
子 | 養子:明矩、榊原政岑正室 |
生涯
編集
初代藩主・松平直矩の次男として誕生。元禄8年︵1695年︶、直矩が死去し、家督を相続する。
元禄17年/宝永元年︵1704年︶、湧井の清水において雨乞いの大祈祷を挙行する。宝永2年︵1705年︶には江戸本所での浚渫、宝永7年︵1710年︶には江戸城吹上御殿の手伝普請をそれぞれ命ぜられ、藩財政が逼迫した。
正徳2年︵1712年︶3月、弟の知清に1万石を分与し、白河新田藩を立藩させた。藩財政改善のため、土岐半之丞を執政としこれにあたらせた。半之丞は杉浦徳左衛門を郡奉行に任じ厳しい取立てを行わせたところ、享保4年︵1719年︶には全藩規模の百姓一揆が発生し、半之丞と徳左衛門は失脚した。
享保14年︵1729年︶、江戸藩邸で死去した。享年51。養子に迎えていた知清の子・義知︵甥、後の明矩︶が跡を継いだ。