柿崎晴家
生涯
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上杉謙信の重臣・柿崎景家の次男として生まれる。
永禄13年︵1570年︶3月5日、謙信と北条氏康が越相同盟を結んだとき、子の無い謙信に代わって、北条氏に対する人質として晴家が差し出された。しかし、氏康が死去して同盟が破棄されると景家のもとに戻っている。天正2年︵1574年︶に景家が死去すると、家督を継いで柿崎家の当主となる。翌天正3年︵1575年︶の﹃上杉家軍役帳﹄によると260人の軍役を負担したという。
天正6年︵1578年︶、謙信死後に上杉景勝と上杉景虎との間で家督争い︵御館の乱︶が勃発すると、晴家は景虎を支持したため、景勝方によって春日山城内で謀殺されたという。ただし、子の千熊丸︵後の憲家︶を擁した上野九兵衛率いる家臣団の一派が景勝方に与したため、千熊丸を当主として柿崎家は存続した。
また、天正5年︵1577年︶に織田方への内通を謙信に咎められ誅殺されたとする説がある。