横田商会
略歴・概要
編集創業
編集
オーギュスト・リュミエールから2台の﹁シネマトグラフ﹂を購入していたリュミエールの同窓生・稲畑勝太郎は、1897年︵明治30年︶2月15日に大阪の南地演舞場︵のちの南街会館︶で初めてのシネマトグラフ興行を行い、友人の高木永之助︵のちの横田永之助、以下横田︶に関西での興行を託すが、横田はその興行からはいったん離れている。1900年︵明治33年︶、横田は稲畑、兄の横田万寿之助とともに、パリ万国博覧会を視察し、新たにシネマトグラフを持ち帰り、ふたたびシネマトグラフの興行を始める[1]。
1903年︵明治36年︶6月、横田は兄とともに、京都に﹁横田兄弟商会﹂を開業、のちに﹁横田商会﹂と改称する。同月、新京極の芝居小屋﹁夷谷座﹂でフランスから輸入したドキュメンタリーフィルムを公開する。1905年︵明治38年︶、神泉苑に現像場を開設、自社での現像を開始する。1907年︵明治40年︶3月、大阪﹁角座﹂と東京・神田区の﹁錦輝館﹂と特約を結び、ここでの映画興行を始め、同年7月7日、大阪の千日前に、浅草についで国内2館目、関西初の映画専門劇場﹁千日前電気館﹂をオープンした[1]。
劇映画の製作開始
編集
1908年︵明治41年︶6月、同社のドキュメンタリー映画﹃韓国観﹄の撮影技師・福井繁一を監督に起用し、同社初の劇映画﹃いもりの黒焼﹄を製作、同作を同月25日に公開した。さらに、同社が京都で映画興行を行っていた先の﹁千本座﹂を経営する牧野省三に映画製作を依頼、牧野はこれを引き受け、﹁日本初の時代劇映画﹂と呼ばれる﹃本能寺合戦﹄を監督、同作は、中村福之助、嵐璃徳を主演に小川真喜多がカメラを回し、同年9月17日に神田﹁錦輝館﹂などで公開された。同社はまだ撮影所をもっていなかった。
1910年︵明治43年︶7月、二条城至近の押小路女学校通西北角に同社初の撮影所をオープン、﹁横田商会二条城撮影所﹂とした[1]。これは日本映画史上で4サイト目の撮影所である[2]。また同年、牧野が尾上松之助を発見、﹃碁盤忠信源氏礎﹄の主演に抜擢、日本初の映画スターが生まれた。
1912年︵明治45年︶1月、御前通一条下ルにグラスステージをもつ﹁横田商会法華堂撮影所﹂を新たにオープン、二条城撮影所は機能を移転して閉鎖した。同年︵大正元年︶9月、福宝堂、吉沢商店、M・パテー商会との4社合併で﹁日本活動写真株式会社﹂︵日活︶を設立した。﹁法華堂撮影所﹂は﹁日活関西撮影所﹂として引き継がれ[3]、横田はのちに日活の社長に就任した。