橋本勘五郎
橋本勘五郎(はしもとかんごろう、文政5年(1822年) - 明治30年(1897年))は、江戸時代末期から明治時代にかけて活躍した肥後藩の石工である。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/Tsujyunkyo.jpg/220px-Tsujyunkyo.jpg)
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概要
編集生涯
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嘉八の三男として文政5年︵1822年︶、肥後藩種山村︵現・熊本県八代市︶に生まれる。種山石工の祖、藤原林七は祖父にあたる。石工としての技術を学んだ丈八は、兄弟の卯助、宇市とともに若いころからアーチ型石橋を架け続ける。弘化4年︵1847年︶、丈八26歳のとき卯助を助け霊台橋︵現・下益城郡美里町︶を6か月で完成させ、その5年後、今度は宇市のもとで通潤橋︵現・上益城郡山都町︶を建造した。通潤橋の架橋後、肥後藩より苗字帯刀を許され、橋本勘五郎と名を改められた。
明治4年︵1871年︶、明治政府に招かれ宮内省土木寮勤めとなり、万世橋を明治6年︵1873年︶に、翌年に浅草橋と蓬莱橋、そしてさらに翌年に江戸橋と京橋の建設に参加した。皇居の二重橋︵正門石橋︶にも関わったと言われるが、明治20年︵1887年︶完成なので疑問が残る。明治6年︵1873年︶5月に大手門内の石橋を修理したと言われるが、具体的にどの橋か判らない。明治7年︵1874年︶元日には歌会始に出席し、同年秋に帰郷した。
熊本に戻ってからは熊本市の明八橋、明十橋、菊池市の竜門橋の建設を指揮した。明治30年︵1897年︶、種山村にて76歳で死去。八代市東陽町北の石匠館の近くに生家が残っている。
代表作
編集※ 具体的に幾つの橋を架けたかは定かでない。