武藤金吉
武藤 金吉︵むとう きんきち、慶応2年5月15日︵1866年6月27日︶ - 昭和3年︵1928年︶4月23日[1]︶は、日本の政治家、実業家。衆議院議員︵8期、立憲政友会︶。族籍は群馬県平民[2]。
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経歴
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上野国山田郡休泊村︵現在の群馬県太田市︶出身。武藤房吉の長男[2]。英吉利法律学校︵現在の中央大学︶を卒業した[2]。東奥日報創刊とともに記者となり、自由民権を主張した。1899年︵明治32年︶には自ら﹁実業新聞﹂を創刊した。また蚕糸業の発展に尽力し、帝国蚕糸株式会社専務取締役、大日本蚕糸会評議員などの職に就いた。その他山保毛織株式会社社長、群馬県農工銀行取締役などを歴任した。
1904年︵明治37年︶の第9回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。1908年︵明治41年︶、群馬県議会議員選挙における家宅侵入罪で重禁錮1月15日の実刑判決[3][4]。これにより勲四等を褫奪された[5]。田中義一内閣で内務政務次官に就任したが、議員8期目在職中に死去した。
栄典
編集家族・親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 7版』人事興信所、1925年。
- 『衆議院要覧(乙)昭和三年』衆議院事務局、1928年。