浄土
起源と名称
編集起源
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極楽浄土の観念は、リグ・ヴェーダに始まるヴェーダ文献にその起源を求めることも可能であるとする説がある[1]。
名称
編集概説
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精神的物質的に何らの潤いを感ずることのない穢土に対して、浄土とは清浄で清涼な世界である。このような清浄の世界は正しく仏の国である。したがって、浄土とは仏国である。
﹃維摩経﹄には﹁その心浄きに随って、すなわち仏土浄し﹂といい、また﹃心地観経﹄には﹁心清浄なるが故に世界清浄なり、心雑穢︵ぞうえ︶なるが故に世界雑穢なり﹂とあるように、世間の清浄であることは心による。すなわち、国土の浄不浄はそこに住む人の心によって決定づけられる。
そこで、真実の浄土は仏の住居する処であり、成仏せんがために精進する菩薩の国土である。この点で、浄土は仏土である。しかし浄土は仏土であるが仏土は必ず浄土ではない。仏の教化対象の世界も仏土であるから、凡夫の世界も仏国でありうる。よって、仏国とは仏の住まいし、また教化する世界のすべてをいうから、浄土は成仏を目標とする菩薩の世界である。
このような浄土について種々に説かれる。それらの中でも阿弥陀仏の西方極楽浄土は有名だが、この外に阿閦仏の東方妙喜世界、薬師仏の東方浄瑠璃世界、釈迦牟尼仏の無勝荘厳国など知られている。その意味で、浄土という語は一般名詞であり、固有名詞ではない。
浄土は何のためにあるのかといえば、仏自らが法楽を受用するためと共に、人々をその国に引接して化益をほどこし、さとりを開かせるためである。雑穢の世界は成仏への修行の妨げである。そこで、諸仏は修行が容易であるように、人々を浄土に引接して化益する。この意味で、浄土とは仏の自利・利他の二利満足の場である。
これらの浄土は、ただちにこの世界ではなく、別の世界において設立されたものである。したがって、人々はこの世界での命が終わってからゆくので、往生浄土という考えがみられる。ことに阿弥陀仏の西方極楽浄土は、往生浄土を立場とする浄土教を形成する。
別世界に浄土の建立を説くのではなく、この世界をそのまま浄土に変現するという考え方がある。すなわち、心浄なれば土も浄とする﹃維摩経﹄の趣旨によれば、この世界にありながらこの世界がそのまま清浄の土でありうる。たとえば、﹃法華経﹄に、この娑婆世界を変じて瑠璃地の清浄世界と変ずと説くものである︵娑婆即寂光︶。この考え方に立つのが、釈迦の霊山︵りょうぜん︶浄土、毘盧舎那仏の蓮華蔵世界である。
浄土の種類
編集『岩波 仏教辞典』によれば、浄土には来世浄土、浄仏国土、常寂光土の3種類があるとされる[2]。
来世浄土
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来世浄土は、死後に赴く浄土として来世に立てられた浄土である[2]。﹁この世に仏はいないが、死後の来世に他の世界へ行けば仏に会える﹂という来世他土思想に由来している[2]。阿弥陀仏の西方極楽浄土、阿閦仏の東方妙喜世界などが有名である[2]。
浄仏国土
編集浄仏国土(じょうぶっこくど)とは、現実世界の浄土化を意味する語であり、現実の中で仏道実践に励む菩薩の菩薩行として立てられたものである[2]。維摩経の仏国品などに説かれる[2]。
常寂光土
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常寂光土︵じょうじゃっこうど︶とは、一切の限定を超えた絶対浄土[2]。仏の悟りである真理そのものが具現している世界[3]。天台宗で説く四土のうちの最高のものであり[1]、智顗が﹃維摩経文疏﹄1で説いた[2]。
三浄土説の対立
編集浄土の例
編集穢土
編集仏典における扱い
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●﹃維摩経﹄仏国品では、﹁丘陵、坑坎、荊棘、沙礫、土石、諸山ありて、穢悪充満せり﹂といい、砂漠地帯や開拓されていない荒野などを穢国といっている。
●﹃往生論註﹄巻上では、﹁三界を見るに、これは虚偽の相であり、これは輪転の相であり、これは無窮の相であり、尺蠖の循環するが如く、蚕繭の自縛するが如し﹂といい、虚偽の世界、流転の世界、尺取虫が丸くなって丸いものを廻るように流転し、蚕の繭の如く自らを縛りつけ苦しむ世界が穢土だという。
ここでは人間が自縄自縛して、虚妄なるものを虚妄としらず、それにとらわれ苦しんでいる煩悩の世界をいう。
脚注
編集注釈
編集出典
編集関連文献
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●瓜生津隆真﹃十住毘婆沙論・浄土論﹄(傍訳浄土思想系譜全書1)四季社、ISBN 4-88405-267-6。
●鈴木大拙﹃浄土系思想論﹄ 法藏館、ISBN 483187115X。
●松本文三郎﹃弥勒浄土論・極楽浄土論﹄ 平凡社東洋文庫、ISBN 4-582-80747-X。