清水規矩
日本陸軍 中将
清水 規矩(しみず のりつね、1890年(明治23年)2月10日 - 1968年(昭和43年)1月19日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
清水 規矩 | |
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生誕 |
1890年2月10日![]() |
死没 | 1968年1月19日(77歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1911 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
経歴
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福井県出身。小学校教員・清水武兵衛の三男として生れる。武生中学校、名古屋陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1911年︵明治44年︶5月、陸軍士官学校︵23期︶を卒業。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第36連隊付となる。1918年︵大正7年︶11月、陸軍大学校︵30期︶を卒業。
1919年︵大正8年︶4月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、陸軍兵器本廠付兼軍務局課員などを経て、1923年︵大正12年︶9月、リガ︵ロシア︶駐在となり、次いでドイツに駐在。帰国後、1927年︵昭和2年︶8月、参謀本部員となり、近衛歩兵第4連隊付、参謀本部員、陸軍技術本部付兼軍務局課員などを歴任し、1934年︵昭和9年︶8月、陸軍大佐に昇進し参謀本部課長に就任。兼軍令部員、歩兵第73連隊長を経て、1937年︵昭和12年︶8月、侍従武官に就任。在任中、1938年︵昭和13年︶3月に陸軍少将、1940年︵昭和15年︶12月、陸軍中将に進んだ。
1941年︵昭和16年︶3月、第41師団長に親補され中国に出征し太平洋戦争を迎えた。1942年︵昭和17年︶5月、予備役に編入され、同年7月、教育総監部本部長となり、南方軍総参謀長、第7方面軍参謀長を経て、第5軍司令官として満州防衛に当たり、対ソ防衛戦を戦い終戦を迎え、シベリア抑留となった。1956年︵昭和31年︶12月にソ連から復員。
栄典
編集- 勲章