牧圭次
日本の裁判官
概要
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1941年︵昭和16年︶に東京帝国大学法学部を卒業[1]。1942年︵昭和17年︶1月に司法官試補となるも、同年2月に現役兵として入隊[1]。復員後は裁判官生活に入り、東京地方裁判所や函館地方裁判所などで裁判を経験後、最高裁人事局勤務、刑事局長、千葉地方裁判所所長、東京高等裁判所判事、最高裁事務総長などを歴任した[2]。
東京地裁時代には東大安田講堂事件を担当した際には1969年︵昭和44年︶6月に騒ぐ被告たちを機動隊を入れて排除し、9人を5日間の監置処分にし、統一公判要求をする弁護側と3時間の論議を行い、8月には弁護団、被告たちに退廷命令を出し、1970年︵昭和45年︶5月には弁護士1人を15日間の監置処分にするなど果敢な法廷指揮をとった[1]。1971年︵昭和46年︶3月19日に飯田橋事件の東京地裁の判決公判ではプラカードを﹁用法上の凶器﹂と初めて認定した[1]。
1977年︵昭和52年︶11月に最高裁事務総長に就任[3]。事務総長時代には岡原昌男最高裁長官が﹁弁護人抜き裁判法案は必要﹂と発言した際には事務総長として国会に呼ばれ﹁︵最高裁長官の発言は︶司法行政を総括する者として当然のこと﹂と答弁した[3]。その後、福岡高裁長官となった際に、安川輝夫事件を処理[3]。その後、名古屋高等裁判所長官に就任[3]。
1982年︵昭和57年︶5月28日に最高裁判所判事に就任した[3]。牧の任命で、最高裁裁判官15人が全員大正生まれとなった[3]。
1989年︵平成元年︶11月に定年退官。