「露土戦争 (1787年-1791年)」の版間の差分
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=== 戦争の推移 ===
[[ファイル:1787-1792 Osmanli-Rus Savasi.PNG|right|thumb|370px|トルコからみた露土戦争と{{仮リンク|墺土戦争 (1787年-1791年)|en|Austro-Turkish War (1787–91)|label=墺土戦争}}]]
[[アブデュルハミト1世]]を[[スルタン]]として仰ぐオスマン帝国の内部では、長年属国としてきたクリミアがロシアに支配されることを屈辱とする[[世論]]が強まっていた。[[イギリス]]と[[フランス]]の駐トルコ大使は、ロシア側の講和条件侵犯を憤る[[イスタンブール]]のトルコ主戦派に全面的な支持をあたえた。1787年4月、オスマン帝国はついにロシアに対して[[宣戦布告]]、露土両国は再び戦火を交えることとなった<ref name=doi90/><ref name=doi196/>。ロシアの駐トルコ大使ヤコブ・ブルガーコフは監獄に入れられた。しかし、オスマン帝国側の戦争準備は必ずしも充分ではなく、オーストリアもロシアとの協定に呼応してトルコ領に侵入した︵{{仮リンク|墺土戦争 (1787年-1791年)|en|Austro-Turkish War (1787–91)|label=墺土戦争}}︶。この戦争でオーストリア皇帝のヨーゼフ2世は[[セルビア人]]たちにオーストリア軍に加わるよう檄を飛ばし、数多くのセルビア人がトルコに対し武装蜂起している。 [[ファイル:Suvorov Alex V.jpg|left|thumb|150px|[[フランス革命]]後の対仏戦争でも大活躍したロシアの名将[[アレクサンドル・スヴォーロフ]]]]
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