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1920年には[[シベリア小艦隊|太平洋海軍]]司令官に任官した。同年[[1月31日]]深夜には、補助艦船船団を率いて海軍学校の[[士官候補生|艦隊実習生]]や[[亡命]]者とともにウラジオストクを発ち、[[中華民国]]を経由して[[敦賀港|敦賀]]に赴いた。 1920年[[8月28日]]には、[[蒸気船]]に乗って[[クリミア半島]]に到着した。[[ピョートル・ヴラーンゲリ|P・N・ヴラーンゲリ]]将軍の[[ロシア軍_(白軍)|ロシア軍]]の下で[[ケルチ]]要塞司令官に就任した。11月、白軍がクリミアから亡命するに当たっては[[アゾフ海]]の艦船分遣隊長に任命され、[[アゾフ小艦隊]]の勢力を集めた。[[10月27日]]付けで[[黒海艦隊]]第2艦船分遣隊長とケルチにおける上級海軍長官に任命された。11月に白軍が亡命することになると、ケルチにおいて艦船に必要物資や軍隊、亡命[[市民]]を乗せ、[[イスタンブール]]に向かった。[[11月24日]]には、イスタンブールにて[[ロシア艦隊]]副司令官に任命され、[[ビゼルト]]への航海を指揮した。
[[ミハイル・ケードロフ|M・A・ケードロフ]]艦隊司令官が[[パリ]]へ去ったため、[[1921年]][[1月3日]]付けでロシア艦隊司令官に就任した。艦船の修理や主要編成の保持、海軍学校の艦隊実習生の教育を続けたが、亡命者を取り巻く状況は悪化する一途であった。フランスが白軍を見捨てて[[ソビエト連邦|ソ連]]を承認すると、[[1924年]][[10月29日]]に艦隊司令官を辞任した。こうして、ベーレンスは最後の白色艦隊司令官となった。 |