瑞光院記
『瑞光院記』(ずいこういんき)は、戦国時代の日本における叙任などの情報を提供する史料。現在は確認ができず、詳細な書誌情報も不明な史料であるが、柳原淳光が備忘のために作成したものという見解がある。
史料概要
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明治時代に﹃大日本史料﹄編纂のための資料として作成された﹃史料稿本﹄の中に、12か所が引用されていることでこの史料は知られている[1]。引用されたのはいずれも口宣案や、綸旨・奉書の草案である[2]。
しかし、昭和期に編纂された﹃国書総目録﹄に﹃瑞光院記﹄は掲載されておらず、現在確認することができない史料である[1]。木下聡は、関東大震災などの災害によって失われたものと推測している[1]。
﹃瑞光院記﹄を根拠とする情報の一つに、桶狭間の戦いに先立つ永禄3年︵1560年︶5月8日付で今川義元が三河守に任じられたというものがある[注釈1]。﹃瑞光院記﹄には口宣案として掲載されている。この情報は、桶狭間の戦いや今川氏の三河政策をめぐる議論に影響する。
史料の性格
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 木下聡、2017、「「三河守任官」と尾張乱入に関係はあるのか」、日本史史料研究会(監修)大石泰史(編)(編)『今川氏研究の最前線』、洋泉社〈歴史新書y〉 pp. 166-183