田北鑑生
田北鑑生 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 永禄4年11月9日(1561年12月15日) |
改名 | 宗福(法名) |
官位 | 大和守 |
主君 | 大友義鑑→宗麟 |
氏族 | 田北氏 |
父母 | 父:田北親員 |
兄弟 | 鑑敦、鑑生、田北鑑重(紹鉄)、鑑益、鎮周、志賀三河守室、奈多鑑基室 |
生涯
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大友氏の家臣・田北親員の子として誕生。父・親員は大友氏の加判衆︵家老︶であり、子・鑑生は初め大友義鑑の側近として仕える。義鑑からは偏諱を賜って鑑生と名乗る。
大永7年︵1527年︶、父に従って栂牟礼城主・佐伯惟治の討伐に参加し、軍功を挙げた。これが初陣とされる。
天文3年︵1534年︶の大内氏との勢場ヶ原の戦いでは、大友軍は当初劣勢だったが、1,000人余の別働隊を率いていた鑑生は、敗走する本隊を収容すると、大内軍に突撃して杉長門守︵架空の人物︶を討ち取り、さらに陶興房に傷を負わせるなどして勝利に貢献した。この戦いの後、大内氏との和睦を願って神社を建設する。また、大友館の修理も行なった事もある。
義鎮が当主になると加判衆となり、筑前国の方分となる。さらに大友晴英︵大内義長︶が大内氏当主として迎えられる頃には加判衆筆頭となっている。 弘治2年︵1556年︶の小原鑑元の反乱や翌3年︵1557年︶の秋月文種の討伐にも参加し、秋月攻めでは大功をたてたとされる。その後、筑後国の方分として現地に留まる。
永禄4年︵1561年︶、第四次門司城の戦いで、補給線を断たれて撤退する際、毛利氏の乃美宗勝らの待ち伏せに遭って重傷を負い、11月9日にその傷がもとで死去した。家督は弟の鑑重︵紹鉄︶が継いだ。