田辺為三郎
実業家、政治家、漢詩人
経歴
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備中国浅口郡長尾村[1]︵岡山県[3]浅口郡長尾村[5][6]、長尾町、玉島市を経て現倉敷市玉島長尾︶で、庄屋・田辺新三の三男として生まれた[1][2]。7歳で父を失い[1]、母に養育され虚弱のため学校に通わず[1][6]、独学で漢学、外国語学、政治経済学などを修めた[1][6]。1879年︵明治12年︶3月、家督を相続した[2]。
1888年︵明治21年︶玉島紡績会社に入社し[1][6]、1896年︵明治29年︶同社取締役に就任[1]。1890年︵明治23年︶児島郡味野村︵現:倉敷市児島味野︶の野﨑家の理事となり[1][6]、当主野崎武吉郎の貴族院多額納税者議員としての活動を支え[1]、同家の塩業事業の発展に寄与した[1]。
1898年︵明治31年︶3月の第5回衆議院議員総選挙︵岡山県第4区、進歩党︶で当選し[1][7]、同年8月の第6回総選挙︵岡山県第4区、憲政本党︶でも再選され[7]、衆議院議員に連続2期在任した[3][5][6]。
また、野﨑家の貸費生出身の白岩龍平を補佐し[1]、1899年︵明治32年︶清国で大東汽船会社を設立し[1]、1903年︵明治36年︶湖南汽船会社も創立[1]。1907年︵明治40年︶清国内で航路を運航する日本企業4社が合併し日清汽船 (株) が設立すると監査役[注釈2]に就任した[1][2][3][4][5][6]。
漢詩を国分青崖に師事[4]。大正になると政財界を引退し[1]、勝島仙波らと詩社・詠社を結成し[1]、大東文化学院教授なども務めた[1][4]。
脚注
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編集出典
編集参考文献
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●成瀬麟、土屋周太郎編﹃大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書﹄八紘社、1913年。
●人事興信所編﹃人事興信録 第4版﹄人事興信所、1915年。
●﹃衆議院議員総選挙一覧 上巻﹄衆議院事務局、1915年。
●﹃総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回﹄衆議院事務局、1940年。
●衆議院・参議院編﹃議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑﹄大蔵省印刷局、1990年。
●﹃岡山県歴史人物事典﹄山陽新聞社、1994年。
●上田正昭他﹃日本人名大辞典﹄講談社、2001年。