田部
日本の古墳時代の支配制度
田部(たべ)とは、日本の古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、ヤマト王権が直接支配した人民のうち屯倉(みやけ)で耕作した者を指す。
概要
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諸地域の民を集団移住させたもの、渡来人を集めたものなど、さまざまな人たちから構成されていた。労働奴隷というよりも、一般農民に近かったと思われる。
﹃日本書紀﹄によると、534年、安閑天皇の時に設置された小墾田︵おはりだ︶屯倉と桜井︵さくらい︶屯倉では、大伴金村の奏上により、国ごとの田部を設置し、それぞれ天皇の妃の紗手媛︵さてひめ︶・香香有媛︵かかりひめ︶に支給されたとある。難波屯倉でも、郡ごとの钁丁︵くわよほろ=田部︶が妃の宅媛︵やかひめ︶に与えられたとなっている[1]。
同じく534年の天皇の行幸の際に、三嶋の県主︵あがたぬし︶飯粒︵いいほ︶は良田として竹村︵たかふ︶の土地40町を献上して天皇から褒められている。先に大河内味張︵おおしこうち の あじはり︶は良田の献上を惜しみ、勅使を欺いていたため、郡司︵国造︶の役から解任されてしまった。味張は恐れ入り、郡ごとに钁丁春秋各500人ずつ献上し、随伴していた大伴金村に河内の狭井田︵さいた︶6町を賄ったという。これによって、三嶋の竹村屯倉では、河内県︵こうちのあがた︶の部曲︵うじやっこ︶が田部とされるようになったという[2]。
欽明天皇の時には、555年に吉備国の白猪屯倉と田部を設置し、その後、569年に検定して丁籍︵名籍︶を作った、という[3]。
大化の改新により、田部は公民となった。