男山応輔
日本の大相撲力士
人物
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幼少期から体がずば抜けて大きく、1883年︵明治16年︶に徴兵検査を受けたが、この時既に身長が197cm、体重112kgあり、この場にいた埼玉県令の吉田清英が応輔に
相撲界入りを勧めた[3]。その後、花籠部屋に入ることが決まり、1885年︵明治18年︶、正式に入門した[4]。体の大きさや素質から﹁武蔵潟二世﹂と呼ばれた[5]。巨体の割に足腰が強く、怪力のため師匠花籠は男山を幕下付出で取らせようとした[6]。翌年︵明治19年︶の5月場所後の巡業に参加したものの、9月に長野県内で便所に入ったところ、あまりにも体重が重すぎて便所の床を踏み抜いてしまい下に落ち、尾骶骨を折った[7]。そのため、立つことも動くこともできなくなり、戸板に乗せられて移動した[7]。飯田町︵現・飯田市︶での興行終了後、地元の勧進元の家で療養にあたっていたが、9月24日急病のために、初土俵前に死去した[7]。死因は脚気説[7]や毒殺説[8]などがある。墓は飯田市の長久寺にあり[8]、﹁豪壮院男山碩応居士﹂と戒名が付けられた[8]。
その後、埼玉県の郷里に1968年︵昭和43年︶、横綱大鵬の揮毫による﹁力士男山応輔之碑﹂が建てられた[9]。