益田元祥
益田 元祥︵ますだ もとなが︶は、戦国時代から江戸時代の武将。石見国人益田氏の第20代当主で石見。毛利氏の重臣。父は益田藤兼、母は石津経頼の娘。妻は吉川元春の娘。子に広兼、景祥、家澄、就之、就景。三宅御土居に居館を構えていた[3]。
益田元祥 | |
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代 |
生誕 | 永禄元年(1558年)[1] |
死没 | 寛永17年9月22日[2](1640年11月5日) |
改名 | 次郎(幼名)[2]→元吉→元祥→牛庵 |
別名 | 又兵衛(通称)[2]、越中守 |
戒名 | 桃林院殿前鴻臚全紹圀大居士 |
墓所 | 山口県阿武郡笠松山笠松神社 |
官位 | 右衛門佐[2]、玄蕃頭[2]、贈正五位 |
主君 | 毛利元就→輝元→秀就 |
氏族 | 益田氏 |
父母 | 父:益田藤兼[2]、母:石津経頼の娘 |
兄弟 | 元祥、女(宍道政慶室) |
妻 | 正室:吉川元春の娘 |
子 | 広兼、景祥、家澄、就之、就景 |
生涯
編集毛利氏に従軍
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父が毛利氏に従属した後の永禄元年︵1558年︶に生まれる。永禄11年︵1568年︶、毛利元就を烏帽子親として元服する。
天正6年︵1578年︶の上月城の戦いに吉川元春・元長父子と共に参加、天正8年︵1580年︶には反旗を翻した伯耆羽衣石城主南条元続を攻め、所領を与えられている。天正10年︵1582年︶の備中高松城の戦いにも元春に従軍、同年に父から家督を譲られ相続する。
主君の毛利輝元が豊臣秀吉に臣従すると、主従共に秀吉の天下統一戦に従い、天正13年︵1585年︶の四国攻めに参戦して伊予高尾城攻めで奮戦、天正14年︵1586年︶の九州征伐にも参加して豊前宇留津城攻撃で功績を挙げた。慶長元年︵1596年︶、豊臣姓を下賜された。天正18年︵1590年︶の小田原征伐にも毛利水軍を率いて三沢為虎・熊谷元直・吉見広頼らと共に伊豆下田城を落とした[4]。文禄の役は吉川広家に従って出陣、碧蹄館の戦いでもその武略を発揮し明の軍勢を撃退している。慶長の役でも渡海して朝鮮に渡り、蔚山城の戦いにおいても広家と共に敵を撃退している。妻の益田の局は毛利輝元から石見国美濃郡で370石、さらに石見国那賀郡長安で50石の知行を与えられている[5]。
長門へ移住
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慶長3年︵1598年︶に秀吉が死去すると、次の天下人と予想される徳川家康への接近を広家と熊谷元直・宍戸元続と共に図る。しかし慶長5年︵1600年︶の関ヶ原の戦いでは輝元は西軍に味方し、元祥も西軍として広家に従い富田信高の伊勢安濃津城を攻略するが、9月15日の関ヶ原の本戦では戦闘に参加しなかった。
戦後、輝元は周防・長門の2か国に減封され、益田氏の領地であった石見も没収されることとなった。更に徳川家康は大久保長安を使い本領安堵を餌に勧誘をかけたがこれを拒絶[注釈1]、新たな所領となった長門阿武郡須佐へと移住、徳川勢の進行経路の一つである北の石見口の守りを担当、福原広俊と共に長州藩の政治を任された。
慶長6年︵1601年︶に毛利氏領国だった備後・安芸に入部した福島正則が毛利氏が慶長5年に徴収した租米の弁償を要求、元祥は福原広俊と共に解決に尽力し、慶長7年︵1602年︶までに完済した[注釈2]。慶長9年︵1604年︶の萩城の築城を担当、翌年の江戸幕府からの江戸城普請に選ばれている。しかし、萩城の工事で熊谷元直・天野元信と諍いを起こし、元直らが処刑される騒動に発展した︵五郎太石事件︶。また、父の代から吉見氏と争っていた領地を輝元に与えられたが、憤慨した吉見広長が慶長9年︵1604年︶に出奔している。
元和6年︵1620年︶、孫の元尭に家督を譲って隠居したが、元和9年︵1623年︶に輝元から藩政を委託され、毛利秀元・清水景治と共に財政再建に取り組んだ。
藩政改革
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毛利氏の主要な合戦の大半に参加して武功を挙げた元祥であったが、武勇だけではなく行政手腕に非常に優れた武将であった。
周防・長門の2ヶ国に減封され、財政が極度に悪化した毛利氏は慶長12年︵1607年︶に検地を行ったが、内容は収入の73%を徴収するという高税をかけているため、慶長13年︵1608年︶に山代慶長一揆が発生、重税に苦しむ農民の逃亡と畑の荒廃をもたらした。元祥・秀元らは寛永2年︵1625年︶に検地を再実施、税率を50%に引き下げて農民の負担軽減を図った。収入は慶長12年の頃より減少したが、この検地で打ち出した石高が長州藩の基盤となった。同時に家臣団の大幅な所領改替も行われ、藩主家の直轄領が収入高の土地を中心に増加、藩主の権力伸長にもつながった[注釈3]。
また、寛永5年︵1628年︶に一揆が起こった山代地方を調査、寛永8年︵1631年︶に貢租を紙に変更して紙を徴収する請紙制を実施した。紙は大坂で売却され大きな利益を上げた。農民保護と田畑復興政策も実行、借金の利息を減らし、逃亡した農民の呼び戻しや新田開発にも取り組み財政再建に全力を尽くした。結果、寛永9年︵1632年︶に長州藩の負債を返却、余剰金および米の備蓄も可能になり、長州藩の財政基盤を固めることに成功した[8]。同年に藩政から引退、寛永17年︵1640年︶9月22日に死去。享年83。
法名は桃林院殿前鴻臚全紹圀大居士。墓所は山口県阿武郡笠松山の笠松神社。
元祥の功績から、子孫は毛利氏の永代家老として江戸時代を通じて活躍することとなった。禁門の変の責任者として切腹した益田親施は著名である。
財政上の記録を記した﹃牛庵覚書﹄が残されている。
大正5年︵1916年︶、正五位を追贈された[9]。
系譜
編集脚注
編集注釈
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(一)^ 家康は長門に次男の景祥を留め、元祥に石見に残り仕官するよう説得した。しかし、元祥は輝元に尽くすことを明言、勧誘を拒絶した。
(二)^ 正則の他にも旧毛利氏領国に入部した出雲・伯耆・石見・備中の堀尾忠氏・中村一忠や家康の代官から租米返済要求が出され、総額15万石に上ったといわれる。輝元はあまりの事態に元祥を通して黒田孝高と相談、領国返上も考えたが、返済責任が付いて回るだけと孝高に説得されて撤回、慶長7年に全て返済した[6]。
(三)^ 改替は家臣団のうち、特に重用された一族および重臣八家の一門衆が対象となり、主に毛利一族が山口に近い場所に移され、反対に福原元俊・宍戸元続が地方に移住させられたことは秀元の意向があったとされる。また、慶長12年と寛永2年の検地には収入に差があり、家臣団に配分される知行高は変更されていないため、差額分は直轄領として組み込まれた[7]。
出典
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(一)^ 益田元祥. コトバンクより2023年2月5日閲覧。
(二)^ abcdef今井尭ほか編 1984, p. 346.
(三)^ 益田氏城館跡﹁三宅御土居﹂ - 益田市
(四)^ 益田市 1975, p. 684-692.
(五)^ 宮本義己﹁武家女性の資産相続―毛利氏領国の場合―﹂﹃國學院雑誌﹄76巻7号、1975年。
(六)^ 児玉 & 北島 1976, pp. 349–350.
(七)^ 児玉 & 北島 1976, pp. 355–358.
(八)^ 児玉 & 北島 1976, pp. 359–360.
(九)^ 田尻佐 編﹃贈位諸賢伝 増補版 上﹄近藤出版社、1975年、特旨贈位年表 p.41。
参考文献
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●今井尭ほか編﹃日本史総覧﹄3︵中世2︶、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
●﹃新編 物語藩史﹄ 第9巻、児玉幸多・北島正元監修、新人物往来社、1976年。
●益田市 編﹃益田市誌﹄ 上巻、益田市、1975年。
●脇正典﹁萩藩成立期における両川体制について﹂ 藤野保先生還暦記念会編﹃近世日本の政治と外交﹄雄山閣、1993年。
●﹃近世防長諸家系図綜覧﹄マツノ書店