粥占
由来
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方法にはいくつかあるが、多くは、煮え上がった粥の中に棒を入れてかき回し、棒についた米粒の数で占うものである。他に、細い竹管などを米などとともに鍋釜で煮て、炊き上げた後に管を割いて中に入った粒の数を数える管粥・筒粥[3][4]︵この場合、12本の管を入れて1か月ごとの天候を判断したり、その地域で作られる作物の数だけ管を入れて作物別の豊凶を判断したりする︶や、粥を数日間放置して、カビの生え具合で占うものもある。
かつては全国的に、神社ではなく村落や一族の本家などで共同で行われていたと見られるが、そのほとんどは行われなくなり、神社で神事として行われるものが残っている。
九州では、北部九州を中心に粥占が分布するが、福岡県・佐賀県・大分県西部では、粥や飯を半月から1ヶ月放置して、それについたカビの生え方や色でその年の豊凶や天候を占う方式の粥占が点在する。特に、筑後川中流域の朝倉郡や脊振山から佐賀平野にかけての佐賀県南部に集中して分布する。
1月15日︵もしくは2月15日︶に丼大の碗にアズキや塩を入れた粥を大盛りに盛り付け、神前に供える﹁粥炊き﹂﹁粥入れ﹂を行なう。数週間から約2ヶ月経ってから、神前に供えられた粥を取り出す﹁粥開き﹂を行ない、粥についたカビを神社総代や氏子総代が中心となって何人かの氏子が、神社に伝わる﹁御粥面図﹂や口伝を基に判別し、カビの色やついた場所︵粥のどこについたかで地域・季節・方角などを区別して占う︶、生え具合で占う。儀礼の終わった粥は、付近の井堰や川に流す。占いの結果は氏子同士が話し合って決め、そのプロセスは氏子以外の者でも自由に見ることが出来る場合が多いが、福岡市西区の飯盛神社の粥占のように、宮司と粥元︵付近の旧家のうち4家からなる組織で、その家の戸主と男子の跡継ぎからなる。宮座の中で宮司の次に位が高く、宮司の代代わりごとの志賀海神社への挨拶に同行する権利も持つ︶だけが粥作りから粥占までに関わり、他の者はその結果のみを聞くことができるという秘儀性の高い粥占もある。
日本各地の粥占行事
編集脚注
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(一)^ ab“今年は豊作?京都・亀岡で﹁﹁粥占祭﹂、かゆで米の豊凶占い”. 京都新聞. (2017年1月16日) 2017年1月17日閲覧。
(二)^ 中西裕二﹁民間信仰と正当性の所在--粥占という事例から (民俗文化形成過程のダイナミズム研究)﹂﹃福岡大学研究部論集A人文科学編﹄第5巻第6号、福岡大学研究推進部、2006年3月、21-37頁、ISSN 13464698、NAID 110004675852。
(三)^ 中西裕二﹁民間信仰における信仰と外部性 : 民俗調査からの再考(<特集>宗教批判の諸相)﹂﹃宗教研究﹄第82巻第2号、日本宗教学会、2008年、571-592頁、doi:10.20716/rsjars.82.2_571、ISSN 0387-3293、NAID 110006937289。
(四)^ ﹁年中行事事典﹂p222 1958年︵昭和33年︶5月23日初版発行 西角井正慶編 東京堂出版
(五)^ ﹁筒粥神事﹂︽諏訪大社下社の神事︾
(六)^ 村里, 徳夫 (1991年3月31日). “ちくしの散歩21筑紫野市指定無形民俗文化財 粥ト―筑紫宮の農業祭事”. 筑紫野市教育委員会. 2021年10月2日閲覧。
参考文献
編集- 中西裕二「甘木朝倉の占い神事」『温故』38号 甘木歴史資料館 2003年