紫安新九郎
日本の政治家、ジャーナリスト (1873-1952)
経歴
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兵庫県城崎郡田鶴野村︵現在の豊岡市︶出身。1897年︵明治30年︶、東京専門学校︵現在の早稲田大学︶に入学し、在学中に雑誌﹃二十世紀﹄を発刊した。1900年︵明治33年︶に卒業した後は博文館の編集局に入った。1901年︵明治34年︶から鎮西日報の主筆となり、1903年︵明治36年︶からは萬朝報で筆を執った。1907年︵明治40年︶、大阪市役所に入って商工課長となり、後に南区長に転じた。
1912年︵明治45年︶、第11回衆議院議員総選挙に当選。当選回数は合計9回を数えた。その間、第2次大隈内閣で大蔵副参政官を、第2次若槻内閣で拓務政務次官を務めた。
戦後、大政翼賛会の推薦議員のため公職追放となった[3]。
その他、出羽石油株式会社取締役、城東土地株式会社取締役を務めた[4]。
脚注
編集参考文献
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●清田伊平編﹃御大典記念 日本ダイレクトリー﹄甲寅通信社、1915年。
●細井肇﹃現代日本の政治家﹄国光社、1916年。
●﹃衆議院要覧︵乙︶昭和十二年十一月﹄衆議院事務局、1937年。
●﹃新訂 政治家人名事典 明治~昭和﹄日外アソシエーツ、2003年。