蔭位
官吏の登用方法
制度
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大宝律令によって制定される。選叙令によれば子孫が21歳以上になったとき叙位[3]され、蔭位資格者は皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫[4]、五位以上の子である[5]。勲位・贈位も蔭位の適用を受ける。蔭位の制は唐の律令制にあった任子の制に倣った制度だが中国の制度よりも資格者の範囲は狭く、与えられる位階は高い[6]。そこに、日本の家柄を重視する貴族社会の特性をみることができる[7]。
皇族・諸王
●親王の子 → 従四位下
●諸王の子 → 従五位下
●五世王の嫡子 → 正六位上
︵庶子は一階を降す︶
諸臣
●一位の嫡子 → 従五位下
以下逓減して
●従五位の嫡子 → 従八位上
︵庶子は一階を降し、孫はまた一階を降す︶
脚注
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(一)^ 蔭位として与えられる位階は正従上下の階がある四位以下であるため、﹁蔭位﹂より﹁蔭階﹂の方が正確な表現とする見解もある︵﹃平安時代史事典﹄﹁蔭階﹂項目 執筆者‥藤木邦彦︶。
(二)^ https://m.douban.com/note/502988524/
(三)^ ただし令の規定通り運用されるようになったのは延暦14年10月8日︵795年11月23日︶付の太政官符が出された後であり、それ以前は17歳以上に内舎人・大舎人として出仕して内分番の選限6考を経て成選︵人事考査︶を受けた後に叙位された。また、大学寮に入って成業︵卒業︶する事でも叙位を受けられた。
(四)^ ﹃延喜式﹄民部省式においては、大臣の曾孫にも従八位下が授けられたという。
(五)^ 延暦19年4月10日︵800年5月7日︶付の太政官奏によって四位の孫にも三位以上の孫と同様に二階下して叙位されるようになった。
(六)^ 大学寮でもっとも優秀な卒業者といえる対策の上中及第者でも正八位下に叙任されるに過ぎなかったが、これは正五位の子︵延暦19年以後は正四位の孫にも︶が蔭位によって自動的に授けられる位階と等しい。もっとも平安時代前期までは四位以上の高位者の人数が多くは無かったため、大学寮はそれなりの権威を有していた。
(七)^ なお、選叙令では内位と外位に同様の規定が適用される事になっているが神亀5年3月28日︵728年5月11日︶付の格によって外位の子孫に授けられる蔭位が引き下げられた︵外正五位の嫡子従八位上、同庶子大初位上、外従五位の嫡子従八位下、同庶子大初位下︶。