谷三十郎
来歴
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備中松山藩士︵旗奉行、120石・役料20石︶・谷三治郎供行の嫡男として備中松山に生まれる。幼少期より直心一派の師範でもあった父から武術を学ぶ。嘉永6年︵1853年︶1月、家督相続。藩主・板倉勝静の近習役として仕えたが、安政3年︵1856年︶10月13日、不祥事案により谷家は断絶となる。断絶後、弟・万太郎と共に故郷を出奔し、大坂南堀江町にて道場を開く。天満八軒屋に居住していたとする史料もある[1]。
新選組加盟の時期は不明だが、元治元年︵1864年︶6月に副長助勤、同年12月に八番組長、慶応元年︵1865年︶4月に七番組組長・槍術師範を務める。池田屋事件では土方隊の組に属し、事件後は褒賞として17両を賜る。慶応元年︵1865年︶1月、弟・万太郎ら4名で大坂焼き討ち計画を未然に防ぎ︵ぜんざい屋事件︶、大坂の豪商・加賀屋四郎兵衛に対する献金要請の際は交渉役を務め、3万1500両もの大金を得ることに成功している。その間、弟・周平は近藤勇の養子となっている。
慶応2年︵1866年︶4月1日、京都東山の祇園社にて死去。墓所は大阪市北区の本傳寺。
備考
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●嘉永4年︵1851年︶1月の備中松山藩﹁御家中席帳﹂には、父三治郎と共に﹁切符銀三枚弐人扶持 谷三十郎﹂の記載が確認される。
●谷家断絶の理由として、三十郎による藩主の姫君との密通説、家老の奥方との不倫などの説が伝えられている。また、不祥事案を起こしたのは三十郎ではなく万太郎とする説もある。
●通説では、種田流槍術の師範で原田左之助にも指導したとされる。しかし、子孫に伝わる話では剣術一筋で、神明流剣術の指南役であったと伝わっている。槍術の達人とする説があるが、これは弟万太郎と混同された可能性もある。
●禁門の変で三十郎が捕縛した中田九一郎に対し、﹁新選組には見かけほど強い隊士はいないので、いつも自分が先頭に立たされる﹂と話をしている。
●通説では、弟の周平を近藤の養子に送り込んだことを鼻にかけ、隊内で嫌われていたとされる。
●死について新選組は会津藩に対して﹁七番組頭谷三十郎儀、祇園石段下に於て頓死相遂げ候﹂と報告している。死因については、斎藤一による暗殺説、過度の飲酒による脳卒中説などがあるが、詳細は不明である。
●司馬遼太郎の﹃新選組血風録﹄︵およびその最初のテレビドラマ版︶では、末弟・谷周平について、三十郎の弟ではなく、息子と描写されている。また、次弟の万太郎は登場しない。
脚注
編集関連項目
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●新選組#新選組を主題にした作品
●﹃新選組!﹄︵2004年、NHK、演‥まいど豊︶ - 最期について、介錯の失敗から孤立したことによって脱走するも失敗し粛清されたと描いている。
●﹃壬生義士伝﹄︵浅田次郎︶ - 最期について、斎藤一によって斬殺されたと描いている。
●燃えよ剣︵1970年版︶︵演‥桑山正一︶ - 第11話に登場、槍の名手で原田左之助の師匠。藤堂平助により暗殺されるも、事故死として会津藩に報告された。なお土方歳三の指示であり、見届け人は原田。